四季物語 〜冬〜

 枯れ枝のように細い指が、真雪の手を取りました。
「ごめんね、大人になるまでずっと一緒にいてあげられなくて・・・。」
細い指の持ち主が、力なく真雪にそう囁きました。
(この人はお母さんじゃない。お母さんであるはずがない。
だって、お母さんは、ピンクの風船みたいにまん丸で、元気で、
よく笑って、よくしゃべる人だもん。
だから、違う。この人は私のお母さんじゃない。)
手を取っている女性よりも更に蒼ざめて、真雪は身動き一つ出来ないでいました。
 でも、解っていました。
変わり果ててはいても、紛れもなく、ベッドに横たわるこの人が、
自分のお母さんだと言うことを。
そして、頬に伝う涙を流した目が、もう2度とは開かないということを。
 真雪、8歳の夏の初めでした。


 銀色のススキの穂が、道端で揺れています。
空き地で遊んでいこうよと誘っているように見えました。
木々はもう、殆どの葉を落として、黒々と下枝を空へと伸ばしていました。
でも、真雪はうつむき加減のまま、早足でその道を通り抜けようとしていました。
早く帰って、洗濯物を取り込まなければならないし、
置いてあるはずのメモの通り、買い物も済ませなければならなかったからです。

 でも、足を急がせている本当の理由は違いました。
初夏の明るい陽が差していたあの病室で、
真雪の時間は凍りついたままになっていました。
だから、笑いさざめく友達の声も、真雪を明るく遊びに誘う声も、
鳥たちが鳴き交わす声も、吹いてくる風の音も
何もかもを聞きたくなくて、
本当なら、耳をふさいで、走って帰りたい気分でした。

 しつけには厳しいお母さんだったので、随分叱られたりしたはずなのに
なぜか、思い出すのは大きな笑い声と細くなった目でした。
現実的なくせに、どこか、ホワンとしたところのあるお母さんでした。
お母さんが側にいた頃は世界は不思議に満ちていて、
世界は素敵に満ちて輝いていました。
 今では乱暴に箱に入れられたままになっている人形たちも、
かつては生きていて、おしゃべりしていました。
そこここですれ違う犬や猫、近くの木に遊びに来る小鳥やカラスも
みんな人間と同じように考えたり、困ったり、おしゃべりを楽しんでいました。
嫌いな雨の日、でも、雨粒の中には、神様が住んでいました。
虫たちは、いつでも愛の歌を高らかに朗らかに歌っていました。
雷はトラ皮のパンツをはいて、踊りながら太鼓を叩いていました。
夫婦でやってくる虹は、その足元にとっても素敵な宝物を隠していました。
壊れた携帯電話には、いつでも見知らぬ遠い国から電話が掛かってきました。
それから、それから、それから…。
 でも、今ではそれは、色褪せた絵のように遠い出来事に思えました。
世界は灰色の雲に閉ざされて、再び輝くようなことはないと
真雪には思えました。
だから、どんなに花が美しく咲こうと、
どんなに月が優しげに輝こうと、真雪の気を引くことはありませんでした。
 真雪は、笑わない女の子になりました。

 物を映すことは出来ても、見えない目で、
音を聞くことは出来ても、聞こえない耳で、
まるで見えない繭の中にいるかのように現実の世界は、遠くにありました。
その中で、真雪は必死にお母さんの面影を抱きしめていました。
真雪がお母さんを忘れさえしなければ、
お母さんが本当には死んだことにはならない気がして。
腕の中からこぼれそうになるお母さんの思い出を、
かき集め、かき集め、時間は流れていきました。
それでも哀しいかな、お母さんの記憶は、少しずつ薄れていきます。
真雪はそんな自分が許せなくて、自分を引き裂きそうになります。
「お母さん、お母さん、助けて!お母さんがいなくなっちゃうよ!」
一人ぼっちの部屋で、真雪は叫びました。

 でも、どんなに真雪があがいても、
時と共にお母さんの思い出は遠くなっていきました。
それは皮肉にも再び真雪に世界が帰ってくることを意味していました。
「大丈夫。全部は覚えていられないかもしれないけど、
全部を忘れちゃう訳じゃない。
私の中からお母さんがいなくなるなんてことはない。」
形見の壊れた携帯電話をお守りのように握り締めながら
真雪は少しずつ笑顔を取り戻し始めました。
それでも、必ずどこかに黒いリボンをつけることを止めませんでしたけれども。

 時間がゆっくりと心に開いてしまった穴をを癒して、
少し翳りを残してはいるものの、真雪は元気な女の子に戻りました。
ただ、夢見がちなところが、全く無くなりました。
(あんなにお願いしたのに、神様は、お母さんを助けてくれなかった。
お母さんも、私も悪いことはしてなかったのに助けてくれなかった。
だから、きっと神様なんていない。)
真雪はそう考えるようになりました。そして、
(神様がいないなら、天使も妖精も、お化けもいない。)
とも。だから、真雪はもう、暗いところも怖くはありませんでした。
助けてくれる存在もない代わりに、傷つける存在もなくなったからです。
真雪の中で、目に見えないものたちの存在は、
お母さんの死と共に封印されてしまったかのようでした。

 見えないものが、本当に何も見えなくなって、
真雪は、それまで大好きだった絵が、段々に描けなくなりました。
華やかで、軽やかで、にこやかだった絵は、
そこにあるものを、あるようにしか描けなくなっていました。
でも、写真のように描けない真雪は、自分の描く絵を気に入らず、
クレパスを持たなくなりました。
 それまで得意だった国語も、よく解らなくなりました。
大好きだった絵本も、今は開くことがありません。
文字を追って、想像することが苦痛になりました。
 その代わり、算数が得意になりました。
心の代わりに頭を使って、教わった道筋どおりにやれば、
間違いなく答えが出てくる算数が好きになりました。
 暗記することも上手く出来るようになりました。
それまで、たくさんの楽しいことが詰まっていた心が空っぽになって、
その空っぽの心を埋めるように知識を詰め込んだからです。
 それでも、どんなに時間が傷を癒そうと、
どれだけ、たくさんの知識を詰め込もうと、
完全に心を埋めることは出来ませんでした。

 その日は、寒い朝でした。
暗く厚い雲が垂れ込めて、朝日は差さず、夜が明けてないような暗さでした。
暖房をつけても、なかなか部屋が温まりません。
真雪は窓から空を見上げて、軽く舌打ちしました。
「学校行くのやだなぁ。今にも降ってきそう。
こんな日に雨になんか濡れたら、凍っちゃうよ。」
でも、そんなことで学校を休むわけには行きません。
身支度を整えると、玄関を出ました。
手袋をした手にはぁーっと、息を吹きかけると
真雪は上目遣いにもう一度重たそうな空を見上げました。
「雪になるかもしれないな。」
そう呟いてから、真雪はふと笑いました。
「お母さんだったら、こう言ったよね。
『その冬の最初の雪のひとひらを捕まえたら、願いが叶うのよ。
ほらほら、捕まえに行こうよ。』って。」
そんなことを思い出して笑った自分に真雪自身が驚いていました。
そして、手を空に伸ばした時、ちょうど雪が降り始めました。
その中の一つを捕まえると、真雪は言いました。
「お母さんともう一度お話がしたいな。なんちゃってね。
信じてないよ、そんなこと。」

 家の前の坂を駆け下りようとしたとき、
お守り代わりの携帯電話が、カラリとアスファルトに落ちました。
もう、壊れてから何年も経って電池もないのに
驚くことに着信を知らせる青いランプが点滅していました。
恐る恐る携帯を拾って、開いてみると、メッセージありと出ています。
真雪は再生のボタンを押してみました。
「もしもし、真雪ちゃん?いい子にしてる?
お母さん、もうすぐおうちに着くからね。
駅前でお土産のケーキも買ったから、楽しみにしててね。
あ〜、あっついわね。もう、春だものね。
来週は、きっと桜が満開になるから、公園に桜を見に行こうね!」
メッセージはそれだけでした。
 真雪は思わず、家から駅へと続く道を見つめました。
でも、お母さんが来るはずはありません。
「あ、そっか。ずっと前の電話が残ってたのか。
来週桜が咲くような季節じゃないものね。
やだもう、私ったら。」
真雪は、泣きながら笑いました。
ぽろぽろぽろぽろ、後から後から涙が出ました。
「おかし過ぎて、涙が止まらなくなっちゃった。」
真雪は、ひざを抱くようにして、うずくまりました。
 「お母さん!おまじない、効いちゃったよぉ。
きっとさっき捕まえた雪は、最初のひとひらだったんだ。
私、『もう一度』ってしか言わなかった。
私、どうして、たくさんお話がしたいって言わなかったんだろう!」
真雪は、声を上げて泣きました。
 大切な世界を取り戻した真雪の上に、静かに雪は降りつみました。
それは、真っ白な腕が、真雪を抱きしめているようにも見えました。



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