風〜追想〜

 うっとうしい梅雨が明けて、原色の夏がやって来た。
夏はいい。明るく開放的な空気が好きだ。
夏は誰もあの足首を隠す無粋なブーツなるものを履くものもいない。
大きく胸元が開くデザインの服もいい。
長い髪もきゅっと頭に結い上げて、襟足が見えるのもいい。
女性は気になると言うけれど、
白くて柔らかそうな二の腕が出るのも嬉しい。

 水場の近くならば、更に露出度は高まって、
なんとも嬉しい季節なのだ。
そうそう。パレオを巻いているのもいい。
恥じらいと言うのは、余計に女性を色っぽく見せる。
いいねぇ、夏、万歳!

 ひらひら、ひらひら、熱帯魚みたいな女の子たちが街を行く。
私は見るともなしに、彼女たちを見ている。
じっと見つめないのがコツ。眼の端程度に入れておくのがコツ。
彼女たちの弾けるようなエネルギーがあたりの空気を満たしていて、
見ているだけでも、浮き立ってくる。
少々浮薄でもいいじゃないか。
彼女たちは、その存在だけでも価値がある。

 そんなカラフルな彼女たちの前を、白いワンピースの小さな女の子が横切った。
ワンピースと同じ白い帽子にピンクのリボンがあしらってある。
夏の暑さを和らげるように吹いた風に帽子のリボンが優しく揺れた。
途端に胸の奥を何かがちくりとさした。
なにか、とらえどころのない記憶…。
思い出したいのに、鍵掛けられていて取り出せないようなもどかしさ。
私は眩暈がして、一瞬目をつぶった。

 翳す手さえも突き抜けそうなほど強い陽射しが頭の中でフラッシュバックする。
そして、その陽射しの中を歩いてる誰か…。あれは…、誰だろう?

 おしゃれな街並にそぐわないようなノーブランドのTシャツとジーンズ。
でも、背筋がビッと伸びていて、少し大またで歩く彼女は、カッコ良かった。
誰もがうんざりするような暑さの中、
彼女からはそのねっとりする暑さが感じられない。
汗をかいてないわけじゃないし、
強い日差しに晒されながら、目も細めているのに、だ。
格別な美人と言うわけでもないが(寧ろその連れの女性のほうが美女だ)
常に笑みを絶やさず控えめに友達の話に相槌をうつ彼女は、
なぜか私の目を引いた。
元来、私は特別なものが見えるタイプじゃない。
けれども、彼女の周りには、涼風が見えたような気がした。

 彼女が友だちからけしかけられる。
「も〜、何でいつもそんなカッコかな!
もうちょっと、可愛い服選べない? ネイルに気を使うとかさぁ、
髪もそんなただ括るんじゃなくってさ、クリップとかあるでしょ?
今時すっぴんなんて、高校生でもありえないって!」
彼女は困ったように笑った。
「だって、分からないんだもん。そういうの。」
彼女の友だちが呆れたような顔をして、彼女を説得している。

 日に焼かれたアスファルトから、熱い空気が立ち上ってくる。
彼女の姿が、陽炎のように揺らめいて見えた。
そこにいるけどそこにいない。彼女はそんな風に見える。
まるで、「逃げ水」のように。


 北風が小さな渦を巻いて、落ち葉を舞い上げていた。
アスファルトの地面とこすれて、カサコソと枯葉が音を立てる。
彼女は、そのつむじ風の中心から、突如現れたように見えた。
たぶんそれは、錯覚。そんなことあるはずがないのだから。
でも、ブラウンベースの服は、風景に違和感なく溶けて、
まるで枯れ木の一本であるかのように、彼女は人の気配が薄かった。
彼女は、ベンチに座って風に舞い踊る枯葉を楽しそうに見ている。
時折空を仰ぐけれど、それはまるで風に押されて揺れる枝の動きのようだ。

 どんよりと重そうな空から、耐え切れなかったかのように雨が降り出した。
真夏の夕立のような激しさはなく、さあっと霧のような雨が降る。
 たぶん、私はこのときに初めて彼女に声を掛けたのだと思う。
「雨が降ってきましたよ。その辺の店でお茶でもどうです?」
と。
その辺にいくらでも転がっている誘い文句。
でも、彼女はゆっくりと私のほうを振り向くと、それはそれは不思議そうな顔をした。
私が喋った言葉が、外国語でもあるかのような顔だった。
彼女が、薄く笑う。
「大丈夫。すぐに止みます。雨宿りの必要はありません。」
そう言うと、彼女は立ち上がって天を仰いだ。
霧雨が彼女の顔をぬらしている。彼女が何か口の中で呟く。
すると雨は、霧が晴れるようにすうっと止んだ。
空気はまだ、しっとりしていた。でも、雨など降らなかったような空の色。
秋独特の深い青の色。
「今、何か…?」
私が問いかけようとすると、彼女はただ微笑んだ。
雨が降ってきたと思っていたけれど、それは、幻だったのか?
何か思い違いをしていたのか?
だって、空はこんなに青い色をしている。
私は一人混乱していた。私はもう一度空を見上げる。
小さくクスリと笑う声がして、私は彼女に目を戻した。
けれど、彼女はもういない。あるのは風に吹かれてカサカサ歌う枯葉だけだった。


 朝起きたら、この辺には珍しく雪が降っていた。
あとからあとから、途切れることなく。
私の大人の部分が舌打ちをして、子どもの部分が喜んでいる。
大人の事情が、私を駅まで向かわせる。
雪に埋もれて歩きにくい道を行くと、やはり雪は億劫だと思う。

 白い帽子に白いニットのワンピース、白いマフラーをしてはしゃぐ人影。
彼女だった。
彼女のコートと思しきものを押し付けられた友だちがまた呆れている。
「子どもじゃないんだから〜。恥ずかしいでしょ!
早く戻ってきてコート着てよ〜。あ〜、そんなにはしゃいで、もう!」
まだ早朝であることもあって、人影はまだらだが、確かに目立つ。
私はコートを持たされている友人を少々気の毒に思った。
 苦笑交じりに彼女に目をやる。
と、降りしきる雪が止まったように見えた。
白いマフラーがふわりと宙に浮いて、羽衣のように見えた。
溶けかけた雪が彼女の周りで光って散って、髪飾りや腕輪に見えた。
白いワンピースが、彼女のはく白い息で、絹の薄物に見えた。
ベージュのレインシューズゆえか、足は裸足に見える。
その姿は、神話の挿絵に出てきた「アメノウズメノミコト」に似ていた。
私は見えた幻を追い払うように頭を振った。

 「あ!」
と小さな悲鳴が聞こえて、私は目を開けた。
目の前に彼女の傾いだ身体があった。
躊躇うより前に身体が動いて、彼女を支える。
一緒に倒れこむかと思ったが、そうならなかった。
彼女は、驚くほど軽かったから。そう、本当に羽衣でも身につけているみたいに。
「人間… だよね?」
思わず口から出てしまった問い。
 彼女の友人がコートを抱きしめるようにして急いでやってくる。
「すみません! ありがとうございます。」
私にぺこりと頭を下げた。
「ほら、あんたもお礼っ!!」
きょとんとしたまま、まだ私の腕の中にいる彼女に促す。
「あ、ごめんなさい。ありがとうございました。それから、勿論です。」
彼女が、柔らかく微笑んで、立ち上がる。
私はいっそこのままでいたいのに。そんな自分の感情に自分で驚いた。
コノママダキシメタママデイタイ


 たしか、雪の日を境に彼女と言葉を交わすようになったのだと思う。
でも、一緒にいても、話をしていても、彼女との距離は近くなった気がしなかった。
彼女はいつもどこか上の空のようだった。
それなのに、道端に咲く雑草や、雨粒が作る同心円の模様には注意を向けた。
私はそれが歯がゆかった。
 盛りを過ぎた桜並木を二人で歩く。
例の如く、彼女は降りしきる桜の花びらばかりを追いかけている。
風が薄紅に染まって奇麗だとはしゃぐ彼女を見て、私はイライラした。
「風に恋してるみたいだね、まるで。」
とげとげした調子で、こぼれてしまった言葉にでも彼女は反応を示さない。
無視された気がして、今度は乱暴に彼女の腕を掴んで振り向かせた。
彼女は困惑を隠さなかった。
「どうして? いけない?」
彼女の言葉が更に私を逆なでした。
「いつまでも、ふわふわ夢見て生きてはいかれないんだよ?
もっと現実を見たら?」
「現実? 現実って何? 現実って、あなたのこと?」
初めて見る彼女の冷たい笑顔だった。
「あなたの現実と、私のそれとは違うみたい。
あなたの言う”現実の世界”に住んでいるあなたは、きっとすぐに私を忘れる。」
初めて彼女が私の目を真っ直ぐ見た。強い瞳だと思った。
一瞬たじろいだ私の隙をついて、彼女が私からするりと抜け出す。
「長い時間をかけて、私、風と契約を結んだの。
あなたでは、私を”現実”に縫いとめておくだけの杭にはなれない。」
「何のことだ? 何言ってるんだ?」
うろたえながらも、もう一度彼女を捕まえようと私は手を伸ばした。
その時、きまぐれな春の風が強く吹き付けてきた。
桜の木を揺らして花びらが降って来る。地面に落ちた花びらも巻き上げた。
私は一方の腕で目を庇いつつ、もう一方の手はそのまま彼女へと伸ばした。
捕まえた、と思った。確かに彼女の手を掴んだ感触があった。
その手を強く引き寄せた。
でも、彼女の姿は、桜色の渦の中、リボンがほどけるように消えていく。
手繰り寄せても、手繰り寄せても、彼女の身体にたどり着かない。
こんなの悪い夢だ。こんなことあるわけがない。
人が風に溶けるだなんて、そんなの現実であるわけがない。

 でも事実、私は桜並木に一人取り残された…。

 そして、不思議なことにそれ以後、誰も彼女のことを覚えていない。
まるで、最初から存在していなかったかのように。


 あ、さっきの女の子がどこから貰ったのか風船を手にしている。
スキップする彼女に不意にビル風が吹きつけた。
驚いた女の子の手から、風船が逃げ出して、かわいそうに女の子が泣いている。

 あれ?今まで何を考えていたんだっけかな?
心を甘がみされたような痛みが広がっているのだけれど…。
まぁいい、思い出せないのは、大したことじゃないからに違いない。
大事なことならきっとまた思い出すだろうし。

 あぁ、まただ。風が胸の中を通り過ぎている。




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