四季物語 〜夏〜


 出店の並ぶ参道からご神木に沿って右に逸れると、
緑の影が深くなっています。
賑やかな祭囃子もここでは遠くに聞こえます。
そのせいか、近くを流れる小さな川のせせらぎも幽かに聞こえてきます。
祭の夜だというのに、月は、遠慮がちに雲に見え隠れしていました。
 せせらぎの音を頼りに、更に行くと、不意に視界が開けます。
そして、そこは、穏やかに明滅を繰り返しながら、
ゆっくりゆっくりと漂う、淡く小さな翠の光でいっぱいでした。
それは、なんとも頼りなげな光でした。

 「きれいだ・・・。」
光の乱舞を見ていると、そう呟く声が聞こえてきました。
よく見ると、川べりに誰か佇んでいます。
その人は、裏葉色の地に蜻蛉を散らした浴衣を着ていました。
聞こえてきた声は低く、声の主は男性のようでしたが、
その体は、ほっそりと華奢でした。
蛍のやわらかな光に浮かぶその顔は、蛍の光に負けず劣らず
どこか儚げに見えました。
 ぽぅ、ぽぅっと光る川を向こうに、その人の背中が、
闇を濃くしています。
微動だにせず、雪のように舞う光を見つめている背中に
(言わなくちゃ、言わなくちゃ。)
と、彼女の気だけが焦って空回りします。
「私、私・・・。」
伝えたいことがあるのに、声になりません。


 「大丈夫ですか?大丈夫ですか?しっかり!」
強い声に呼ばれて、少女は目を開けました。
「あ、はい。大丈夫です。」
反射的にそう答えましたが、なにが大丈夫なのか分かりません。
ぐるりと見回すと、そこは駅の構内で、
自分が倒れてしまったのだということが、分かりました。
「あ、すみません。私、倒れたんですね。大丈夫です。立てます。」
まだ、頭がクラクラしましたが、少女は立ち上がりました。
「お家の方に連絡したほうが良くはないですか?真っ青ですよ。」
親切に覗き込む駅員さんに頷いて、はたと我に帰ると、
少女は大切なことに気が付きました。
「えっと、私は誰でしょうか?」
今度は、駅員さんの顔色が変わりました。

 大きな窓の明るい診察室で、少女は、いくつもの質問に答えました。
特に頭を打った形跡もないのに、
どうしても、自分が誰なのかも、どこに住んでいるのかも、
何一つ思い出すことが出来ません。
「でも、一つだけ覚えています。私、病院に大切な用事があったんです。」
少女が小さな声で言いました。
でも、覚えているのはそれだけでした。
 病院に通っているならば、診察券があるはずでしたが、
それもありません。
高校生くらいに見えますが、制服も着ていなければ、学生証も
持っていません。
警察に問い合わせても、捜索願いも出ている様子がありません。
八方塞でした。

 少女の脈は極端に遅く、体温も低いので、点滴を打ちながら、
病院に泊まることになりました。
一滴一滴落ちるしずくを見ながら、少女の胸はざわめきます。
(こんなことしている場合じゃない。急がなくちゃいけないのに。)
気は焦るのに、なにを急がなければならないのか、思い出せません。
胸の中が捩れて、泣き叫びそうになるのをかろうじて押さえます。

 それでもどうしても我慢が出来なくて、
真夜中、少女は起き上がると、点滴の針を抜いて、
こっそり病室を抜け出しました。
白くて冷たい床がずっと続いていました。
非常口を示す緑の光と、ところどころの常夜灯だけがたよりです。
何か当てがあるわけでは、勿論ありません。
あるのは、胸をチリチリと焦がす焦燥感だけ。
誰か大切な人を見舞うために病院へ行く途中だったのだろうかと
考えたりもしますが、
どうも、しっくりきません。
何か、探していたような、そんな気がします。
廊下を突き当りまで行くと、切れ掛けて非常灯が点滅していました。
その点滅する光を見た途端、不意に眩暈が襲ってきました。
目の奥がチカチカします。無数の光が覆いかぶさるように降って来ます。
「いやぁああああああ。」
思わず叫ぶと、見回りの看護婦さんが驚いて飛んできました。
「どうしたのっ。」
怯えたように目を見開いて震える少女を見ると
看護婦さんは、少女をぎゅっと抱きしめました。
「大丈夫。大丈夫よ。ここは病院よ。怖いものはないわ。」

 抱かかえられるようにして病室に連れ戻された少女はでも、
まだ、混乱のさなかにいました。
看護婦さんは、少女の隣に座るとなだめるように肩を抱きました。
「無茶はいけないわ。点滴も、無理やり抜いたのね。
今日は、眠ったほうが、いいわ。眠れるように薬を持って来るから、
今度は、ちゃんとベッドで待っていてね。」
(いいえ!いいえ!無茶をしなくちゃいけないわ。
私、時間がない。でも、何の時間?)

 睡眠剤を打たれて、少女は浅い眠りと現の間を
行ったり来たりを繰り返します。
トロトロとしたまどろみの中、少女は夢を見ました。
降りしきる雪のようなヤワヤワとした光が少女に向かって言います。
「お止め、お止め。彼は人間だよ。」
「そうそう。違う世界を生きるものだよ。」
「私達にだって、時間はないのよ。」
少女は光を振り払うように頭を振りました。
「分かってる、そんなことくらいっ!」
叫んだ自分の声で、目が覚めました。息が弾んでいました。
 カーテン越しに、朝日が差し込んでいました。

 水さえも殆ど受け付けずに衰弱していく体をもてあましながら、
少女は夢のことを考えていました。
(光は「彼は人間だ」と、「生きる世界が違う」と言った。
じゃあ私は人間じゃないの?)
いやな感じが体にまとわりついてくる気がしました。
(違う。あれは、ただの夢。私は悪夢を見ただけ。)
白い天井、白い壁、白いベッド、白いカーテン。
そして、白い自分の記憶。
どれも、無機質で、暖かいものを拒絶している気がしました。
否定しても、否定しても、疑念が足元から這い登って、
少女は、イライラしました。
でも、満足に動き回ることも出来ず、気だけが焦れていきます。
少女の目に、悔し涙が滲みました。

 薬のせいでまた、トロトロと中途半端な眠りに落ちました。
そして、少女は夢を見ています。
空には、朧月。
足元から澄んだ水の匂いが立ち上ります。
そして、人の魂のようにゆらゆらと漂い、飛ぶ無数の蛍。
それを見つめる人の影。
胸がきりりと締め付けられます。
薄ぼんやりした明りのせいなのか、
その人の黒い筈の髪は、灰色がかって見えました。
真っ直ぐで、癖のない髪でした。
顔色は、驚くほど青白いのに、目は穏やかです。
蛍に向けられた瞳は、愛しいものを見るような優しい目でした。
「きれいだ・・・。」
蛍のささやかな光に裏葉色の浴衣が良く映えています。
(そうだ、私、この人に・・・。言わなくちゃ。)
その人の頭の上をゆっくり飛びながら、蛍は思いました。
「ごめんなさい。私、見つけられなかった。」
出来る限りの力で、蛍は叫びました。

 少女の体の中を突風が吹き抜けました。
いくつもの昼と、いくつもの夜が逆にめぐりました。
そして、少女は、本来の姿を取り戻しました。
少女は、一頭の蛍でした。
「見つけられなかった。あなたを治す方法。
先の国のお医者さんに行ったけど、ダメだったの。
私、自分自身さえ失ってしまって、探せなかった。
ごめんなさい。ごめんなさい。
私、あなたのために何もしてあげられなかった。
もう、私の時間も尽きてしまうの。」
蛍は緩やかに弧を描きながら、彼に叫びました。
でも、その声は、届くわけもなく、蛍は哀しく光るばかりです。
 彼が、手を伸ばしました。
蛍は、そうっと掌に降りました。
気持ちを伝える術も持たず、役に立つこと一つ出来ず、
蛍は、自分自身が歯がゆく、身をよじりました。
彼の手は、初夏だと言うのに、冷たいままです。
見上げれば、優しい瞳に生命の力強さがありません。
彼に残された時間は僅かだと、蛍には分かっていました。
自分をきれいだと言ってくれた穏やかな彼。
何とかしてあげたかったけれども、もう、無理です。
蛍の呼吸もゆっくりになってきました。
明滅の間隔が遠くなり始めています。
 蛍は、小さいけれども、途切れることなく輝きました。
それは、彼女が彼に唯一届けることが出来るものでした。
そしてそれは同時に、彼女にとって、最後の光になりました。



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