明日した約束 〜ティールーム ステラ〜



 マキは手を引かれて夜の中を行く。
「ね、行こう。」
ニコリと笑まれて差し出された手を拒むことが出来なくて
その手に引かれて月明かりの下を行く。
マキに柔らかく微笑みかけたその人を、マキは知らない。
けれど、自分を懐かしそうに見るハシバミ色の瞳には
悪意や害意は見えず、出された手に思わず手を重ねてしまったのだ。

 夜、外出したことがないわけではない。
でも、マキは家を黙って抜け出すようなことは今までしたことがなかった。
しかも、一緒にいるのは、自分より十歳くらい上の見知らぬ男の人。
マキは今更ながらに自分の大胆さに驚いていた。

「あの…、誰ですか?」
恐る恐る訊いてみる。その人はいたずらっぽく目を細めると
口の端だけちょっと上げた。
「ん?」
立ち止まるとマキを覗きこむように身体を折り曲げる。
化粧をしたら、女の人だと言っても通りそうな
それも、きれいなと形容詞を付けても差し支えないような顔を
近付けられて、マキは重ねて尋ねる言葉を失った。
そうなることを重々承知でやっているのであろうその人は
からかうようにクスリと小さく笑う。
「よく聞こえなかったなぁ、なんて?」
(こ、この人見掛けによらず、案外意地悪!)
ムッとした気持ちで支えて、マキは言葉をふりしぼった。
「あのっ、あなた、誰なんですか?」
困るマキを楽しむように、ハシバミ色の瞳をくるりとさせると
「さぁ? 誰でしょう?」
そう言って、明後日のほうを向いた。
その瞳の中に一瞬影が揺れた気がしてギクリとし、
つられてマキも同じほうを見る。
「キミの大切な人かもね。」
「はぁ??」
混乱するマキをちらりと横目で見ると、その人は耐え切れないように
声を上げて笑った。
「大丈夫、そんなに怖がらなくても。」
(別に怖がってはいないんだけど…)
ちょっと意地悪でも、正体不明でも、
ずっと離さず繋いだままの手が温かくて、
その手から何となく伝わってくるマキに向けた優しい思いが
伝わってくるような気がした。
おかしいけれど、それが胸の奥までじんわり届いて
マキを泣きたいような気にさせる。
だから、怖くなかったし、その手を振り払うことが出来なかった。

 駆け足にこそならなかったけれど、
速めの歩調でマキを連れて行く足取りには迷いがなかった。
少し息が上がりながら、マキが尋ねる。
「こんなに急いで、一体どこへ行くんですか?」
その問いに鼻歌交じりの足がふと止まった。
「明日した約束の…」
言いかけて
「ふふ。どこへでも、ね。行けるところまで。
それとも、ママに叱られそうで怖い?」
ムッとするマキを楽しむように、また謎めいた笑みでマキを煙に巻く。

 どこへでも、と言いつつ、躊躇なく進んだ先にあったのは…。
「遊園地?ここがゴール?」
目だけでイエスと応えて、まだ彼は手を放さず握ったままでいる。
「あの…、何も動いてないみたいだけど…。」
「それは、どうかなぁ。」
とぼけた顔で笑うと、閉まっているゲートを軽々と飛び越えた。
「手、貸す?」
からかうように横目でマキを見た。
「え。要らない。だって、私入らないもの。帰る。」
「おっと、それはダメ。」
ちょっと慌てたように、もう一度ゲートを飛び越えると
マキの腕を捕まえて、ぐいっと引き寄せた。
よろけたマキの身体を支えるようにすると、ふわりと抱き上げる。
どちらかと言うと、華奢な体つきの人なのに、
その行動は危なげなかった。
「せっかく来たのに、駄々こねないの。」
そう言いながらマキをゲートの内側に下ろして、
自分もまた軽々そのゲートを超えてきた。
でも、そのゲートのすぐ内側で立ち止まる。
急に止まった動きに違和感を覚えてマキが振り返った。

「お願いだから、逃げたりしないで。」
今までのお遊びめいた表情からがらりと変わり、
真剣な顔でそう言われて、そのギャップに驚いたマキは
思わず、コクコクと何度も頷いてしまっていた。
マキの様子を見て、再びいたずらっぽい雰囲気をまとうと
今度は、マキを急き立てた。
「ほら、早く。」
 どこに?と訊く間もなく、手を繋いだまま走り出す。
「こっちだよ。早く、早く。」

息が切れるほどのスピードで、夜中の遊園地を駆け抜けていく。
次に立ち止まったのは、観覧車の前だった。
機械室をコツコツコツと3度叩くと、中で人影が動いて
観覧車に明かりが灯り、ゆっくりと動き出した。
一番近くにあるゴンドラに近づいてその扉を自分で開けると
彼が手招きする。
「さ、乗って。」
「え、でも…。」
「大丈夫、チケットはあるから。」
「え、そうじゃなくて…」
怪しすぎるこのシチュエーションで、乗ることに躊躇する。
「いいから、早く。」
殆ど押し込まれるような形で乗り込んだ。
ゆっくりゆっくり夜を登っていく観覧車。
自分の住んでいる街が、段々下へと離れていく。
街が眠っているような時間でも、車だろうか、動いていく小さな光。
遅くまで起きているのか、窓から漏れている明かりも少し。
夜中黙って道を照らし続ける街灯のライン。
光が少ない分、どこまでが地上で、どこからが空なのか分からなくなる。
不思議な浮遊感が身体を包んだ。
窓に額をくっつけるようにして外を見ていたマキから感嘆の声が漏れる。

「1人で盛り上がってるところ悪いんだけど。」
笑いを含んだ声がして、マキはハッと我に返る。
(そうだった、知らない人と2人きり密室だった。)
現実に引き戻されて、マキはピンと張り詰めた。
でも、そんな緊張など一切無視で、彼が呼ぶ。
「さ、こっちだよ。」
そう言うと、今まさに一番高いところに登りきったゴンドラのドアを開けた。
「な、何してるんですか! 危ないじゃないですか!」
うろたえて、ひっくり返ったマキの声をクスリと笑うと
落ち着き払って左手でマキの手を取り、ドアのほうへとエスコートする。
「やだ!落ちちゃう!」
エスコートの手を振りほどこうとするマキを見て、
さすがにちょっと眉間にしわを寄せると
「バタバタうるさいよ。そんなに暴れると、ホントに落ちるよ。」
と大人の顔をして嗜める。
そして、マキの手を取ったまま、ドアの外へと踏み出した。
マキは怖くなって目をぎゅっと閉じた。

 でも、予想に反して、手が放されることも一緒に墜落することもない。
恐る恐る片目を開けてみる。
イタズラっぽい視線を送りながら
「なにしてんの?」
と、クスクスと笑っている彼がそこにいた。
「な… んで…??」
風に揺れる観覧車の扉の向こう、彼は空中に立っていた。
いや、違う。夜空に浮かぶ小舟の上に立っていた。
「さ、乗り換えて。大丈夫、こっちのゴンドラのチケットもあるから。」
エスコートされるままに、ゴンドラに乗り込むと
帽子を深く被ったゴンドリエーレが櫂を操って舟を出した。
 観覧車が上るようなゆっくりした速度で黒いゴンドラが夜空を滑っていく。
舟の下にはいつもと変わらない静かな夜の街。
混乱するマキを見て、とても楽しそうな見知らぬ彼。
でも、そんなからかうような眼差しの向こうに
胸の奥が痛くなるほどの優しさを秘めているように思えて
やっぱりマキを泣きたい気持ちにさせた。

 星空の中、水しぶきさえ上がるはずもなく静かに静かに進んだ先、
小さなゴンドラが行き着いたのは、
礼拝堂を思わせるような小さな白いドーム型の建物だった。
中に入ってみると、外観同様白を基調としたシンプルな内装で
並んでいる小さなテーブルには白いレースが掛けられている。
ガラス張りの壁の向こうには砕け散ったガラスの欠片を
ばら撒いたかのような星の世界。
月が届きそうなほど近くで輝いて、室内を優雅に照らしていた。
 ちょっと気取った表情になって奥のテーブルまでエスコートすると
慣れた様子でイスを引き、マキを誘う。
「どうぞ、お嬢さん。」

 メニューを開くと、白地に金の文字で綴ってあった。
彼は見たこともない文字で書かれたメニューにざっと目を通すと
「なにがいい?マキはサヴァランが…。」
言いかけて、あっと口を噤んだ。そして、ちょっとだけ意地悪な顔になると
「ここのサヴァランは、キルシュがきついから、お子さまにはだめかな?」
声をひそめて言い直した。
子ども扱いされて、名前を呼ばれた不思議を聞き逃したマキがムキになる。
「ケ、ケーキに入ってるくらいの量なら大丈夫です。
小学生や中学生じゃないんだから!」
その様子を見ると、彼はちょっと目を見開いてぷっと吹き出した。

 生クリームがたっぷり乗ったサヴァランと紅茶が運ばれてきた。
「わぁ、いい匂い…。」
ダージリンよりも、もっと甘くてもっと香ばしい独特の香が
ティーカップから立ち上る。
彼がはしゃぐマキを瞳に映して、その奥で笑う。
「好きだよね。ティー・ステラ…。」
「お店の名前と一緒の紅茶? って、私これ初めて飲むのに
なんで、私が好きだってあなたが知ってるんですか?」
「ん?」
口の端をちょっと上げながら、イタズラっぽい目で聞き返されて
マキは、小さくため息をつく。
「もう、いいです…。」
(遊ばれてる。完全に。)
遊ばれている事実にも、遊ばれてるのに腹が立たない自分にも
呆れて、ため息が出た。
カップに口を付けるマキを、彼が止める。
「あ、飲む前に仕上げ、ね。」
「仕上げ?」
「はい、カップ持って。」
言われたとおりにカップを持って、窓から優しく降り注いでいる月の光にかざす。
とたん、カップの中が光ってティー・ステラがワントーン明るい色に変わった。
「それから。」
また少し角度を変えて、星影をティー・ステラに映す。
するとまた光って、もうワントーン明るい色に変わった。
「わぁ…、きれい…。」
「どうぞー、召し上がれ。」
彼が懐かしそうな目で微笑んだ。

 言われたとおり、ティールーム・ステラのサヴァランは
たっぷり洋酒が使ってあった。
その美味しさに思わず全部食べてしまったけれど、ちょっと後悔する。
頭がボーっとなり、身体が少し火照った上にふわふわして、
マキは、自分がケーキで酔っ払ったことを認めないわけにはいかなかった。
「顔、赤いよ?」
含み笑いされて、思わず両手で頬を押さえた。
「美味しかった?」
「はい…。」
「ふ、そこは意地張らずに素直なんだ?」
ますます楽しそうな彼を尻目に、マキは口を尖らせる。
「なんか、あなたばっかり私のこと知ってるみたいでズルイです。
あなた、ホントに誰なんですか?
なんで、私のことここに連れて来たんですか?」
一瞬、彼が遠い目をして、マキの心臓がギュッとなった。
「おれのことは、ケイとでも。
ここに来たのは、マキとの約束だから。
明日の明日のずっと先の明日、マキと約束したから。
『ティー・ステラってきれいだね。美味しいね。
素敵なティールーム見つけちゃったね。また来ようね。』って
マキが言ったから。だから…。」
そう言った彼の薄い瞳の色がもっと薄くなったように見えた。
このまま、目の色だけでなく、存在自体がどんどん透けて
月光に溶けてなくなってしまいそうな気がして、マキが遮る。
「未来のことなのに過去形で言うなんて変です。
そうやって、私のことからかってるんですね。もういいです。」
ちょっと目を見開いてから、ケイと名乗った彼はふぅっと微笑んだ。
「マキは、昔っからマキなんだね。」
マキが片方の眉を上げて
「私は私です。ずーっと、ずーーーーっと。」
少しろれつの回らない口調で答えると、ケイが喉の奥でククっと笑った。

 他愛無いおしゃべり、他愛無い冗談。
からかわれて拗ねるマキと、拗ねるマキを楽しむケイと
2人にはさまれた繊細な真夜中のティー・セット。
店内を緩やかに流れていく旋律が2人の間をそっと埋めていく。
その間も、月は僅かずつ傾いてたおやかに時間を刻む。
月の光よりも、星の光よりも、柔らかく優しい時間が過ぎていく。

そして、その傾きが深くなった頃、ケイが窓の外を指差す。
「マキ、ほら、月虹だ。」
見ると、月の光で白い虹が掛かっていた。
「時間だよ、マキ。」
時間。そう言われたとき、訊かなくてもマキには分かった。
このちょっといじわるで、でも、ワクワクする時間が終わりなのだということが。
マキは、黙って小さくうなずいた。
「ねぇ、マキ。月に掛かる虹に願いごとすると叶うんだってさ。
マキは、これからあの虹に乗ってマキの時間へ帰る。
そのときに、ねぇ、マキ。
これから先、ずっとマキが元気でいられますようにって、
不治の病など決して患いませんようにって、祈りながら帰ってよ。
ね、マキ? 分かった?」
不思議そうに小首をかしげるマキにケイが重ねる。
「マキ…。約束… して、お願い。」
マキはニッコリ笑って、うなずいた。

 来たときと同じゴンドラで虹まで漕ぎつける。
ゴンドラからマキをそっと下ろすと、ケイがもう一度ぎゅっと手を握った。
「マキ、約束、忘れないで。」
マキは二度ほどうなずいた。
繋いだ手が離れて、マキは月の虹を滑り降りていく。
振り返ったけれど、虹の光に隠されて、ケイの姿は見えなかった。
だからマキは知らない。ケイが泣きそうな顔で見送っていたことを。
そして、マキは思う。
(もう一度、ケイに会いたいな…。)

 虹の道はでも、マキが想像していたよりもずっと速くマキを運んだ。
気付けばマキはもう自分の部屋、ベッドの前に佇んでいた。
(あ、約束…。果たせなかった。けど、ま、いっか。)
神社で願掛けするくらいにしか信じていないマキはペロッと舌を出した。

 翌朝、マキはスッキリと目覚めた。
でも、昨夜のことはきれいさっぱり記憶から抜け落ちていた。
残っているのは、どこかふわふわと優しい気持ちと
ちょっとドキドキする高揚感だけ。
「なんか、すごくいい夢見たような気がする!」
今日何かいいことがありそうな気がして、ウキウキした。

 いつもの道じゃなく、公園を横切っていく。
木の香りが上から降ってきて、思わず、深く息を吸った。
公園の中にある野球場の横をすり抜ける。
金網越しに練習している風景が目に入った。
ノックを受けている人もいれば、キャッチボールしている人もいる。
素振りしている人もいれば、ランニングしている人もいる。
金網をはさんですぐ側を駆け抜ける人たちとすれ違った。
「あれ…?? あの人、どこかで…。」
すれ違った直後、マキは思わず振り返った。
振り返って、その人とばっちり目が合った。
でも、その目の合った人は、マキのことなど見なかったような様子で
また前を向いて走っていった。
「気のせいか。」
マキは、自分を笑った。

 「おい、カズキ。何見てんだよ、しっかり走れよ。」
隣から小突かれて、カズキはペロッと舌を出した。
「や、好みの子だなって思ってさ。
しかも、さっき振り向いて、オレのこと見てたし!
脈あると思わねぇ?」
ぺし!今度は頭をはたかれた。
「練習に集中しろよ、集中! 女はあと、あと!」
「へーい。」

 月にかかる虹に願いを掛けると叶うと言う。
正規の時間の中、もう一度出会い直したことを二人はまだ知らない。




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