記憶の海に沈んでいく。思い出の風景がいくつも揺れている。
はっきり見ようと覗き込むと、でも、それらは、消えてしまう。
頼りなくて、もどかしくて、私は途方にくれる。
「…ん、…恵さん、志恵さん、聞いてますか?」
はっとわれに返ると、田中君が私を覗き込んでいた。
「あ、ごめん。聞いてなかった。なに?」
田中君は、大仰に肩をすくめて、ため息をついた。
「だから、このときの照明ですってば。やだなぁ、ぼぅっとするなんて。
志恵さんらしくないっすねぇ。恋っすか?」
「ばかね。そんなわけないでしょ?」
私は、そう否定したけれど、きっと顔が引きつっていたに違いない。
自分の心が自分のものでないようだった。
仕事をしていても、冷静さと、集中力を欠いた。
心が、休むことなくざわめいて、御しきれない。
それなのに、デザインは、好評だったりするのだ。
「この頃、変わったね。以前の突っ張った感じも良かったけれど、
どこか、丸みを帯びたデザイン、いいよ。うん、いい。
それに、どこか、和風なところも。
このデザインは、いけるよ!」
と、スポンサーが大乗り気だ。
和風?言われて、初めて自分のデザイン画を見る。
確かに…。
使うモチーフが、花鳥風月って感じだ。
それも、古くから着物なんかにあしらわれているような
落ち着きのある仕上がりになっている。
黒い髪に黒い瞳の彼に、これなんか似合いそうだと、
考えてる自分がいて、あわてて頭を振った。
打ち消しても、打ち消しても、あの温かい笑みが消えない。
心ならずも、逢いたいと思ってしまう自分が歯痒かった。
彼は、あの夜から、現れていなかった。
「逢いたい…。」
小さな小さな泡が、胸の中で弾ける。私は、あえて、それを無視する。
すると、また小さな泡が弾けるように囁く。「逢いたい…」と。
再び、私は、聞こえなかったふりをする。
小さな泡は、次々と弾けて、胸の中が、泡の弾ける音で、いっぱいになる。
逢いたい気持ちが、木霊する。
目をつぶっても、耳をふさいでも、それを追い出すことが出来ない。
違う、違う、違う、違う!何度否定しても、否定しきれず、
私はとうとう、折れた。
「そう、逢いたい。でも、私には、その術がない。」
私は絶望的に呟いた。
でも、気持ちを口にしたことをすぐに後悔した。
ぼんやり思っていたことを、はっきりと認めた形になって、
圧倒的な孤独感が襲ってきたからだ。
そうなのだ。私は、彼が誰なのかさえ知らない。
ましてや、連絡を取る術はない。
待つこと以外に私に出来ることはなかった。
その日も、帰宅は深夜になった。
いつもの疲労に余計な心労も重なって、私はフラフラしていた。
小さな自分の城の、小さな鍵を開ける。
ところが、既に鍵は開いていた。耳の奥で、金属音がする。
「彼だ。」何の確証もなかったけれど、直感した。