微  笑


 まだ、引越しの荷物が行き交う部屋から小さな小さな庭を見て、
直也は嬉しそうにしています。
「これで、犬が飼えるよね!」
「買えるわよ〜。よかったわね、直。
ところでね、ここ、ちょっと大きな荷物が通るから、
庭に下りててくれない?」
直也は大きくうなずくと、ちょいちょいっとスニーカーを引っ掛けて、
庭へ飛び降りるようにして小さな廊下からいなくなりました。

 ポーン、ポーン、ポーン。サッカーボールをリフティング。
これなら広いスペースは要りません。
ポーン、ポーン、ポーン、ポコ
「あ」
ボールは、直也の脇をすり抜けて、小さな庭を横切っていきます。
門から出たところで、ようやくボールに追いつきました。

 キーッ!! イヤな音の後に、ドンと更にイヤな音がしました。
比呂がぎょっとして顔を上げました。
「直! 直! どこ! 直!」
さっきまで、ボールに戯れていた直也の姿がそこにありません。
心臓が鷲掴みにされたかのようにギリリとなりました。
開けかけの荷物を放り出し、比呂は裸足で廊下から飛び降りました。

 直也はいました。玄関先に。
焦点の合わない目を見開いて、血だまりの中に倒れて
ピクリとも動かずに。
 比呂の悲鳴が空気を切り裂くように響き渡りました。


 比呂は、小さな棺に取りすがったまま、泣きもしないでいました。
始終、視線がさまよっていて、それでいて何も見えていないようで、
その様子は、どこか人形じみていました。
「真人、直はどこ?」
「比呂、直也は死んだんだよ。直也はもういない。」
幾度となく同じフレーズが繰り返される夫婦の会話は、参列者の涙を誘いました。


 真人は重い足取りで、家へと向かっていました。
もう、比呂から笑顔が消えてからどのくらい経つのか、
考えるのが憂鬱でした。
一度は、引越し前の場所に戻ろうかとも考えました。
ここでは、比呂の気を紛らわせてくれる知り合いはいませんでしたから。
でも、不幸な事故を知っている人全部が、好意的なわけでなく、
好奇の目に晒されるとなれば、それも躊躇われました。
それより何より、誰のどんな言葉も、今の比呂の心にとどまるのは、
無理なように思えました。
まるで、耳から入っても、そのまま言葉が体を素通りしていくようです。
どうすれば、比呂に笑顔が戻ってくるのか真人は考えるのに疲れました。
 引越ししてきた直後のように荒れ果てた家の中、
始終ぼんやりとして、着替えもしなくなってしまった妻、
そして、もう決して帰ってくることのない
明るく、屈託のないやんちゃな笑顔。
部屋の中で忘れ去られたように転がるサッカーボールを
どう扱っていいのか、もう真人にも分かりません。

 また、灯りもついていない家に帰るのかと思うと、気が滅入りました。
ところが、その暗いはずの家には、煌々と明かりがともっていました。
玄関先まで来ると、料理のいい匂いがしてきます。
「お帰りなさい。」
ニッコリ笑って迎えてくれた比呂を見て、真人は幻覚を見ているのかと
頭を振りました。
「どうしたの、そんなビックリした顔をして。さ、あがって。」
昔のように笑う比呂を見て、真人は二の句が継げません。
真人は直也の事故からこっちのことが、ただの夢だったかのように思えました。
(あれは、嘘だったんだ。直也が事故にあって死んだなんて。
そうだ、事故はあったかもしれないけど、直也は助かったんだ。)
 しかし、そのすぐ後にその幻想は崩れることになります。
部屋の荷物は確かに片付いていました。
ですが、その代わりに尋常じゃないほどのペットフードが山積みされていました。
「あ、驚いた? 犬を買ってきたの。直が、飼いたがってたでしょう?
可愛い柴犬よ。今、そこのバスケットに寝ているの。
ねぇ、まだ、仔犬ですもの、部屋の中にいさせてもいいでしょう?」
「え、ああ、そうだね。」
バスケットのほうへ目をやりながら、真人は生返事をしました。
比呂が真人に背中を向けたままポツリと呟きました。
「だって、もう、直はいないんですもの。」
比呂が、直也のことを口にするのは、告別式の日以来でした。
真人は、そんな比呂の呟きに答える言葉が見つかりませんでした。

 珍しく、朝早くに目が覚めた真人は、新しい家族のことが気に掛かり、
そっとバスケットに掛けられたタオルをどかしてみました。
確かに、小さな茶色の柴の仔犬がいました。
ただし、ぬいぐるみの。
真人は、ゆっくりと首をめぐらし、異常なほど買い込まれた
ペットフードの山を見つめました。
(一体、どういうことなんだ?)
そこに比呂が起きてきました。
「あ、おはよう真人。今日は早いのね。
あ、ルンちゃんを見に来たの? 
あら、そう言えば、名前をまだ教えてなかったわよね。
その子はね、ルンちゃんよ。」
そう言うと、比呂は、ぬいぐるみをそうっと抱き上げました。
「ルンちゃん、パパですよ。おはようのご挨拶してしてね。」
一拍置いてから、比呂が満足そうに真人に笑いかけました。
「ね、おりこうでしょう? 私ね、一目で気に入ってしまったのよ。」
そして、抱き上げた時と同じように、そうっとバスケットに
犬のぬいぐるみを戻しました。
まるで、弱々しい仔犬を扱うように。
真人は、驚きのあまり、声も出せずにいました。
そして、もう一度、ペットフードに視線をやりました。
「すぐに、朝食にするから、新聞でも読んで待っててね。」
軽い足取りで、キッチンに向かう自分の妻を見送って、
真人は、全身が総毛立ちました。

 真人は、すぐに比呂の後を追い、肩を掴むと乱暴に振り向かせました。
「比呂、比呂。直也はもう、死んだんだ。戻ってこない。
それは、仕方のないことなんだ。
比呂、子どもを作ろう。俺たちの新しい家族を作ろう。
比呂、しっかりしてくれ。比呂っ!」
両肩を掴んで懇願するように言う真人の手を比呂はそっと外しました。
「いいえ、ダメよ。子どもは直だけよ。
次の子どもなんてダメ。直を裏切ることよ。」
鋭い光が、比呂の目の中をよぎりました。
「比呂…。」
強い目の光に気圧されて、真人は半歩後ずさりました。
「私たちには、ルンちゃんがいるじゃない。ね?
ルンちゃん、今、ご飯しますからねぇ。」
ぬいぐるみに微笑みかける比呂を前に、真人は、更に半歩後ずさりしました。

 家の中は、奇妙な明るさを取り戻しました。
比呂は本当に愛しそうにルンと名付けたぬいぐるみを可愛がりました。
餌を食べないと言っては、心配し、
トイレが汚れたと言っては、シートをこまめに替えています。
時には、ぬいぐるみがどこかに隠れてしまったと言って、
家中を探し回ることもあります。
ぬいぐるみに向かって、叱りつけることも。
そして、直也がいた昔のように手際よく、家事をこなしました。
真人は、そんな比呂をどう扱っていいのか、分からず、混乱していました。
ルンはぬいぐるみなんだと、はっきり言うことは出来ると思いました。
でも、それでまた、抜け殻のような比呂に逆戻りするのかと思うと、
それも怖くて出来ません。
話を合わせる事で、比呂の心の均衡を保てるなら、
暫くの間、それでもいいかもしれないとも思いますが、
このままでは、比呂が現実に戻ってこられないような恐怖感もあります。
そして、結局どうしていいのか分からないまま、
ズルズルと時間だけが過ぎていきました。

 そんなある金曜の夜、真人がいつものように帰ってくると、
比呂が妙にはしゃいでいました。
そしてまた、雪崩落ちてきそうなほど、ペットフードを買い込んでいます。
「比呂、これは一体…。」
答えは聞きたくないけれど、それは許されない情況でした。
 「うふふ。ダメって言われちゃうかもしれないから、
黙ってもう一匹買っちゃったの。
今度の子はね、コーギーよ。ちょっと足が短いの。
でも、その足で走り回ると、とても可愛いのよ。
ねぇ、真人。怒らないで。お願いよ。」
真人の心臓が、バクバクいっています。でも、聞かなければなりません。
「で、そのコーギーは、どこ?」
真人が歓迎してくれるものだと思った比呂は、顔を輝かせて
リビングの端のほうから、コーギーを抱いてきました。
それを見て、真人は、足元がぐらぐら揺れるような気がしました。
果たしてそれは、ぬいぐるみの犬でしたから。
「比呂…。」
その後、絶句する以外に真人にどんな方法があったでしょうか。
でも、真っ青な顔色の真人を見て、比呂が泣きそうな顔をしています。
「やっぱりダメ?やっぱり怒ってるの?」
暫くの沈黙の後、真人は答えました。
「いや、いいんだ。怒っていないよ、比呂。」
ぬいぐるみを抱いた比呂を抱きしめながら、真人は泣いていました。
「比呂、俺はどうすればいいんだ。どうしてやったらいいんだ。」

 毎週金曜が来るたびに、真人は、気が重くなりました。
週末を迎えるたびに、比呂が新しいぬいぐるみを買っては、
既に部屋を潰しそうなほどのペットフードを更に買い込んでくるからです。
今日こそは、そいつらは生きてなんかいないと、
餌も食べなきゃ、トイレもしないと言わなければと思いつつ、
無邪気にぬいぐるみたちの世話をしている比呂を前にすると
真人は、何も言えなくなってしまうのでした。

 それでも、20個目のぬいぐるみが家にやってきたとき、
真人の中で、何かがふっつり切れてしまったようでした。
「比呂、そんなにたくさんの『ぬいぐるみ』を一体どうしたいんだ?」
それは、低くて凄みのある声でした。
比呂は怯える風でもなく、ただただ、不思議そうな顔をして、
真人の顔を見ています。
「そいつらは、ぬいぐるみだ、比呂。分かっているだろ?
そいつらは、生きていない。命のないただの綿の塊だ。
だから止めよう。そいつらが生きているかのようなフリは。」
比呂の目が、驚いたように大きく見開かれました。
「なに…言ってるの?直人? フリって何のこと?
そいつらって、誰のこと?」
比呂の目の中には、困惑の色だけがありました。
でも、ここで怯んでは、比呂を現実の世界に連れ戻せません。
真人は、なおも言い募りました。
「お前の周りに転がっている犬の形をした『もの』のことだよ。
そいつらのために餌を買い込んだようだけど、
そいつらには、餌は必要ない。トイレも。
生きていないんだから、食べもしないし、出しもしない!」
比呂の体が、小刻みに震えだし、やがて立っていられないほどに
大きく揺れ始めました。
真人は、比呂を支えようと、比呂の体に手を伸ばしました。
でも、比呂はその手を払いのけると、近くにあった果物ナイフを掴み、
真人に切り付けました。
真人の中指がほんの少し血をにじませました。
「比呂っ!」
「いや、聞きたくないっ!聞きたくないっ!
信じないわ、なにもかも!
あなたなんて信じない、私自身も信じない!
過去も未来も信じないっ!
直は、直は、帰ってくるのよ!
大好きな犬を飼ってたら、きっと帰ってくるの!
たくさん犬がいてくれたら、すぐに帰ってくるのよ!
邪魔、させないっ!」
そう叫ぶと、比呂は、大きな声で泣きじゃくりました。

 真人の心に疲労が影を落としました。
自分だって、直也が亡くなったことでダメージを受けています。
それでも、普通に仕事に行って、仕事もしなければなりませんでしたし、
強いショック状態の妻も支えてやらなければなりませんでした。
でもこの上、狂気に陥ってしまった妻を守っていくには、
無理がありました。
心の限界を超えていました。
真人は子どものように泣く比呂を置いて部屋を出ると、
後ろ手に部屋のドアをそっと閉めました。
そしてそのまま靴を履き玄関をくぐると、二度と戻ってきませんでした。


 たくさんのぬいぐるみに囲まれて微笑む
ミイラのように干からびた遺体がこの家から見つかるのは、
数ヵ月後のことでした。




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