エチュード〜泪月−oboro−〜


 人は、どうして満足すると言うことを知らないんだろう?
何故、どんどん欲深になっていくんだろう?
熱めのシャワーを浴びながら、私は胸の中で繰り返す。
 眠れなかった夜に、眠らずに見た夢。
そうだ、あれは、夢。幻だったんだ。現実じゃない。
現実であるはずがない。
あんな、偽りの… 裏切りの…。
偽者のミホ、そして、偽者の私。
そう、私ですらない影… のはずなのに。
何度、鎮めても鎮めても、微熱が足元から這い登ってくる。
恋しくて、身が捩れてしまいそう。

 いっそ、触れないでいたほうがまだましだった。
知らずにいたほうが、まだ、耐えられた。
でも、他でもない。墓穴を掘ったのは、私自身。

 身代わりじゃなく、間違いじゃなく
今更、ナオキの気持ちが欲しい…
欲しい、欲しい、欲しい、欲しい…
その気持ちを、理性が押さえつけようとするけれども、
まるで大きな蛇が体の中で暴れまわるようで、抑えきれない。
一体、どうしたら忘れてしまえるのだろう?

 ふと、左手首を見ると、内側に不自然な痣…。
「癖…かな。ヘンな癖。普通は首筋とか、胸元だよね。クスクスクス…。」
思わず、笑いが漏れてしまう。
その痣にそっと唇を寄せて、口付ける。
「う…。」
声を上げて泣き出しそうになって、顔からシャワーを浴びた。

 夕方近くに、ナオキからメールが入る。
「埋め合わせするから、軽く食事でもどう?」
ぎくり、とする。
確かに、今度は驕れよってメールを入れたのは私だ。
でも、今会うのは…。
頭ではそう考える。なのに、心は裏腹に行きたいと叫ぶ。

 結局、私は心に負けた。いいじゃないか、もう少し夢見ても、と。

 Tシャツにジーンズの簡単な格好で出向く。
少し早めに着いたと思ったのに、ナオキはもう席で待っていて、
着いたとたんに、片手を挙げて合図された。
それだけのことなのに、ドキドキと嬉しいってかなりマズイ。
要らぬしっぽを出しそうで、怖い。

 「あれ、あたし時間間違えた?ごめん、遅れて〜。
でさでさ、今日は全部驕ってもらえるんだろ? ラッキー!!」
明るく話しかけたけど、大丈夫かな? 変にはしゃぎすぎてないかな?
もう、気が気じゃない。
やっぱり会いにくるんじゃなかったかな…。
 そんな私とは対照的に 
昨日とは違って、落ち着いたトーンで、ナオキが答えた。
「あ、俺のほうがちょっと早すぎたんだよ。
昨夜は悪かったな。好きなもんなんでも食っていいぞ。」
昨夜と言う言葉が、ちろりと胸をなめて落ち着かない気分にさせる。
でも、メニューを手に取ることで、それをごまかす。

 「ふぅ〜♪ 腹いっぱい。ナオキ、ごちそうさんっ。」
「うん…。」
ナオキの様子が少しおかしい。怖くなって、言葉を捜す。
「あれ、元気ない?
もしかして、財布忘れたとか、そう言うのなしだよ?
ってか、ま、もう一回貸しでもいいけどさ、次は倍返…。」
言い掛けた私の左手をナオキが取った。
驚いた私は言葉が続かない。
ナオキが少し身を乗り出すようにして、真っ直ぐに視線を合わせてきた。
「これでもさ、人を見るプロを目指してんだよ、俺。
忘れてた?」
私の表情は、このときまさに凍りついたと思う。
ナオキは、ふっとため息をつくと、
左手首にしていたリストバンドをずらした。
慌てて右手で隠すけれども、ことは、露見した後だ。
「やっぱり…。」
ナオキの顔が曇る。
あぁ、こんな顔させたくない。
「な、なんだよ、やっぱりって。しょうがないじゃん、
ドジってぶつける時だってあるんだよ!!」
「俺、プロだって言わなかった? 自分の癖くらい知ってるしね。」
私は黙り込んだ。

 「真実を暴いても、誰も幸せにならないなら、
その真実は、白日の下に晒されるべきか否か?
って、盛り上がったことあったよね。」
ポツリと、私が言う。
「俺は、砂の上に立つ城はいつか傾くって言った。
真実を隠蔽してごまかしても、幸せにはなれない。」
「今、このときもその考えは変わらない?」
「・・・・・・変わらない。」
「そっか…。いつから分かった?」
「お前が店入ってきたときから。」
「ちぇ。やっぱり来なけりゃ良かったよ。」
私は苦笑いした。

 「酒の上の失敗の一つだよ。そう思って忘れてよ。
ナオキは『ミホ』って呼んでたよ。ちょっとした間違いじゃん。
だから、ミホのこと裏切ったわけじゃないよ。
ちょっとばっか、私が酔いを利用しただけ…だよ。ごめん。」
泣いちゃダメだ。泣いちゃダメだ。泣いたらナオキが困る。

 ずっと好きだった。いつからかって忘れるくらい前から。
でも、ちゃんと失恋しなかった。
だから、自分の中でしっかりした終止符を打てなかった。
その報いが、今来てる。
そっか、これが砂上の楼閣ってもんか。なんて、
どこかで醒めた私が私を見てる。
「謝るのは、俺のほうだろ、普通。ごめんな。
俺、気安くお前に甘えてたんだな。ホントにごめんな。
でも。」
言いかけて、ナオキが躊躇った。
あぁ、何を言われるのか、もう私には分かった。
聞きたくない。でも、ここで聞かずに逃げたら、また同じこと繰り返す。
だから、敢えてその先を促した。
「・・・もう、会わない。古くからの友だちとしても。」
心臓に刺さるかのような言葉。
そこからひびが入って、全身粉々に砕けた気がした。
「そう、だね。」
砕けた私の破片がそう音を立てた。

 伝票を手にして、ナオキが出口へと向かう。
私は、放心したまま動けなかった。
カララン、ナオキが戸をくぐる音がした。
 イッテシマウ、モウ、ニドトアエナイ。
ダメ、ヤッパリタエラレナイ。
私は自分の荷物を掴むと、店の外へと走り出ていた。
 身体をぶつけるようにして、後ろから抱きつく。
「あ、あたしじゃダメなの? どうしても、ミホじゃないとダメなの?
あたし、全然可能性すらないの?
あたし、ミホを敵に回しても、ナオキの心が欲しいよ!」
ナオキは縋りついた私の腕を無理やり引き剥がす。
「そんなことになったら、俺たち絶対上手く行かない。
後ろめたさがいつまでも付き纏うよ。
お前、真っ直ぐで優しいから、それに耐えられないと思う。」
ははは。さすが付き合いだけは長いだけあって、
私のことをよく知ってるね、こんなとこばっか、呆れちゃうよ。
たぶん、その通りだ。上手くなんて行かない。
後ろめたさに負けて、喧嘩別れでもするのがオチだ。
それでも、ほんの少しだけでも揺れてくれたらいいのに。
嘘でもいいから。

 去り際に、もう一度だけ正面を向いた。
ナオキのなんとも言えない表情が見えた。
少しは辛いって思ってくれているんだよね?
そうは聞けないけど。
私は視線を足先に落とす。
途端、左手首を掴まれてぐいっと引っ張られた。
バランスを崩して、気がついたらナオキの腕の中だった。
ギュッと抱きしめられて、耳元で囁かれる。
「ごめん、さよなら…。」
もう、戻れないことを実感させるような声だった。
「う…ん。さよ…な…ら。」

 手を放すと、ナオキは二度と振り返らず真っ直ぐ歩いて行った。
私は立ち尽くしたまま動けない。
あぁ、ギリシャ神話のようにこのまま一人の人を想ったまま
木に姿を変えられたらいいのに。

 見上げれば満月。明日は雨になるのか、輪郭が朧に霞んでいる。
それとも、滲んで見えるのは、私だけ…かな。
一筋涙がこぼれて、月が揺らめいた。




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