曼珠沙華


 「きっと帰ってくるから。お侍になって、偉くなって帰ってくるから。
そしたら、こんな貧乏暮しはおさらばだから。」
夫の言葉に初瀬は目を伏せた。初瀬はそんなこと望んでなかった。
食うや食わずの生活でいいから、二人寄り添って暮らせれば、それだけで良かった。
それでも、太平を行かせる決心をしたのは、太平がそれを強く望んでいたからだった。
「おまえさま、どうぞ早く帰って。おまえさまが帰るまで、私きっと待っていますから。
この家を守って待っていますから。無事に帰ってくださいね。
それだけが、私の願いです。」
太平はそんな妻を無欲だと笑った。

 数年しても、太平は戻らなかった。
でも、別れたときの約束を守って初瀬は一人でひっそりと待ち続けていた。
この戦続きの世の中で、それはたやすいことではない。
荒れ果てた畑からは、作物は取れず、初瀬は雑草を口にしながら生き延びた。
太平がいたころよりも、更に痩せ細り、まるで幽鬼のようになりはてていた。
それでも、毎日化粧を施し、きちんと身繕いを怠らなかったのは、
きっと帰ると言う夫の言葉を信じていたからだった。
今日帰ってくる、今日帰ってくる、と一日一日にしがみつくように過ごす。
眠れば、後ろから槍を突き通されて命を落とした太平を夢に見たけれど、
初瀬はその度、頭を強く振って、その夢を自分から追い出した。

 少し世の中が落ち着いてきて、初瀬の畑でも、野菜が取れるようになってきていた。
それでも、太平は帰らなかった。
気丈に待ち続ける初瀬ではあったけれども、
今では、あの悪い夢のように太平が命を落としてしまったかもしれないと
考えずにはいられなかった。

 静かに霧雨が降る夜に、ほとほとと戸を叩く音を聞いた初瀬は、
転がるようにして扉に手を掛けた。
「おまえさま???」
でも、返ってきた声は、若い女のものだった。
「冷たい霧雨に難儀しております。どうそ、軒先なりとも
お貸しください。」
初瀬は、軽く自分を笑ったあと、少し涙ぐんだ。
「軒先などと言わずに、どうぞ、中へお入りください。
粗末ではありますが、雑炊もございます。」
そう言って、スッと戸を開けた。

 旅人は二人連れだった。
ひとりは、さっき戸を叩いて声を掛けてきた女。
そして、もうひとりは、笠を深くかぶった男。
二人きりで旅をしているとなれば、恐らく夫婦と思われた。
女がぴったりと男に寄り添う様子に、初瀬の胸がちくりと痛んだ。
「夜分に不躾なお願いを聞いていただいて、ありがとう存じます。
わたくしは、千鳥。こちらは、夫の太平と申します。
一晩、お世話になります。」
そう言うと、千鳥は深々と頭を下げた。
(太平…?)初瀬は、反射的に男を見つめた。
ゆっくりと笠を取ったその下から現れたのは、
顔に大きな傷を負って、やつれてはいたが、
初瀬の待ち続けた太平の面差しそのものだった。
(お、おまえさま!)心の中ではそう叫んだ初瀬だったが
あまりの驚愕に、それは、声にならなかった。
目を見開き、太平を見つめる初瀬に背を向けるようにして
太平の世話を焼く千鳥は、そんな初瀬の様子に気が付かない。

 「こんなものしかございませんが。」
初瀬は、殆ど汁物のような雑炊を二人に勧めた。
千鳥は、感謝の言葉を口にしてから、夫にも雑炊を勧めた。
まだ若く美しい千鳥と、千鳥にされるがままになっている
太平のようすを見ていることが出来ずに、初瀬はそっと目を逸らした。
そのまつげが、微かに揺れていることに気が付くには、
千鳥は若すぎたし、部屋は暗かった。
俯きがちに黙っている家の主の様子を誤解して、
千鳥は説明を始める。
「夫から、ろくろくお礼を申し上げもせず、申し訳ありません。
夫は、大きな怪我をしてから、人が変わってしまったのです。
元は、明るくて、優しい人であったのですが…。」
どこか病的に視線の定まらない太平をちらりと千鳥が見た。
「どうぞ、お許しください。今は、何も持ち合わせがありませんが、
親類の元に着きましたら、きっとお礼申しあげますから。」
千鳥は再び頭を下げた。
「いえ、どうぞ、お気になさらず…。」
激しい動悸を抑えるように初瀬はようやくその一言を搾り出した。

 これから、豊かな暮らしを約束された場所へ赴く二人。
明るく、可愛い新妻千鳥。それに引き比べて、煤けた自分。
あれほど待ち続けた太平は、受けた傷ゆえか初瀬を忘れ果て、
初瀬を見ても、心動かすこともない。
(何のために今日まで生き抜いてきたのか、何のために。)
一途に夫を信じ、待ち続けた我が身が哀れだった。
心が空虚に過ぎて、涙も出なかった。
 隣で静かに寝息を立てている二人に向かって憎悪が燃え上がるまでに
時間は掛からなかった。
初瀬は足音を忍ばせて床を出ると、
よく手入れされた鎌を手に再び戻ってきた。

 「もう、お待ちしません、おまえさま…。」
初瀬は、凄絶な笑みを浮かべると、鎌を太平の首筋に当て一気に引いた。
ざあっと生暖かいものを身に浴びて、初瀬の髪から足まで真っ赤に染まる。
ことここに至って、ようやく目を覚ました千鳥にも、
容赦なく初瀬は切りつけた。
千鳥も悲鳴一つあげる暇もなく、どさりと床に転がった。
理由を問いかけるような目を見開いたままで。
初瀬が必死に清潔を保ってきた小さな小屋は今、禍々しい赤一色だった。
初瀬はその中で、一人放心したまま座り込んだ。
その顔は、どこかほっとしているようにも、
絶望に苛まれているようにも見えた。

 一体、どれくらいの時が経ったのか、初瀬が我に返った頃には、
日は高く上っていた。
初瀬が壊れたからくり人形のようにギクシャクと小屋の中を見渡す。
これから先のことを考え、途方にくれるはずだったのに、
初瀬は、一人凍りついた。
小屋の中には、初瀬のほか、誰もいなかった。
太平と千鳥が倒れているはずのところには、彼岸花が一輪ずつ落ちている。
小屋の中は、相変わらず、朱に染まっていたが、
それは、彼岸花の花びらが、そこここに散らばっているからだった。
「どういう…こと?」
初瀬は混乱する。夢だったのかと思ったが、
戸口近くには、二人の小さな荷物と、太平がかぶっていた笠がある。
初瀬は動悸がして、呼吸が速くなり、視線はおろおろと漂った。
ふと、自分自身を見れば、やはり頭から足まで、彼岸花にまみれている。
初瀬は、長い息を一つ吐いた。
柔らかく微笑むと、太平が倒れていたはずのところまでいざった。
太平が化身したかのように思える一輪を手にとって優しく撫で、
そして、その胸にかき抱いた。
「千鳥さまだけをお供にはいたしません。ね、おまえさま…。」
そう呟くと初瀬は、花を口にした。

 ところが、初瀬の期待した死は、初瀬には訪れなかった。
太平の化身を根まで食べても、
散らばり放題になっている彼岸花をいくら飲み込んでも。
花で口を真っ赤にしながら、目を血走らせている姿が、鎌に映り込んだ。
初瀬は、そこで己が姿を見た。
額には、人ならぬものの印があった。
手に持っていた花びらが、音もなく落ちた。
「つまり、おまえさまの後を追うことは永遠に許されないと?」
初瀬は、自分が夜叉に堕ちたことを知った。

 世の中に、ようやく戦がなくなった頃、
山では奇妙な噂が広がっていた。
霧雨の降る日に山で迷うと、突然頭上が開けて、
あたり一面に真っ赤な花が咲き乱れている庭に出るのだと。
その様子は、まさに天上界に咲く曼珠沙華そのもの。
そして、その夢のような風景の向こうには、山奥に不似合いな屋敷があって、
そこには、寂しい目をした絶世の美女が住んでいる。
女はそっと手招きを繰り返すが、
誘われていった人は二度と帰らないのだ−−−と。




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