深海の魔女


 最後の客人がここを訪れてから、どれくらいになるだろうか、と
魔女はぼんやり考えた。
随分長く生きた彼女は、もう、自分の名前さえ覚えていない。
今はただ、記号のように自分自身を“魔女”と認識しているだけ。
「客人をまろうどとはよく言ったもの。本当に訪れる人は稀なこと…。」
ひっそり笑った声は、小さな泡になって暗い海に消えていった。
訪れる人のない深い深い海の底、彼女はいつしか灯りをともすのも止めた。
何がどこにあるのか、全て把握した今、
たった一人きり、部屋を照らす灯りは必要なかった。
彼女は、闇に身体を溶かすように、ひっそりと生きていた。

 人魚の王国の末の姫がやってきたのも随分昔。
小さな姫は、果たして幸せになったのだろうかとふと思う。
末っ子の姫を心配して、姉姫たちは自分の自慢の髪を差し出して
小さな短剣を貰い受けて行ったけれど。
きっと幸せになったに違いない。
彼女は自分のいちばん大切だった声を失ってでも
欲しいと思った足をちゃんと手に入れた。
その足で、愛しい人の元へと走って行けたはずだ。
だから、姉姫たちの心配は杞憂で、短剣は使われなかった。
だって、ほら、短剣は再び海に飲み込まれて、今ここにある。
そして、この短剣には血の曇りは全くない。
これはたぶん、ハッピィ・エンディングの証拠…。
「よかったね、小さな向こう見ずの姫。」
深い闇の中、魔女が少しだけ口角を上げた。

 「誰かが訪れてくれればいいと思う? 今私は寂しいと思う?」
魔女は、自分自身に問いかけた。
「いいえ。」
誰に聞かせるわけでもないのに、魔女は声に出して答える。
彼女はやってくる客人が、自分をどう思っているのか知っていた。
自分に何を求めるのかも知っていた。
「願いを叶える代わりに、一番大事なものを差し出せ。」
そんな取引を申し出てくる強欲な魔女。
でも、それさえ惜しまなければ、強力な魔力でもって
どんな願いをも叶えてくれる稀代の魔女。
それが自分の噂、自分の評価だと。
でも、と彼女は考える。
自分自身を賭けるくらいの覚悟なくして夢を叶えようなどと
そんな虫のいい願いごとなどあっていいはずがない、と。

別に欲しいものなどない。
差し出されるものそのものには興味はないのだ。
事実、人魚姫の二本の足と交換した声も魔女には必要なかった。
しわがれた恐ろしげな声は、勝手な願い事を持ち込んでくる者たちへの
変装の一つに過ぎない。
彼女は久々に口から小さな貝の欠片を吐き出すと
気まぐれに小声でゆるく歌い始めた。
末の姫の声のように、鈴を振るような可愛い声ではないが、
それより少し低めの落ち着いた優しい声だった。
光の届かぬ深い闇の中、その声が小さくともしっかり響き渡る。
普段は揺るがぬ濃い蒼がふるふると微かに震えた。

願いを叶えるとき、魔女が知りたいのはその覚悟だった。
あなたの覚悟は如何なりや? 
その無言の問いに全力で応えられる願いのみ、
叶えられる価値がある、と彼女は考えた。
彼女の魔法は、自分の鱗を一枚一枚はがして使って成される。
どうして、真剣でもない望みを叶えなければならないだろうか?
だから、欲するのだ。本気の証を。

 最初のうちは、でも、魔女は何の見返りも求めなかった。
彼女を頼ってやってくる人たちを何とか助けたいと思い、
悩みが晴れて、やって来た人たちが笑顔になるのが嬉しかった。
喜んでもらえるのが、他人の役に立てることが
ただ嬉しくて、それが全てで、それだけでよかった。
鱗をはがしていく痛みにも耐えられた。
けれど。
願いが叶ってしまうと、人は忘れていってしまうのだ。
願いを叶えてくれた彼女のことはもとより、
どんなに自分が望んだのかと言うことを。
容易く叶ってしまう願いは、容易くその価値を失う。
彼女は使い捨てられていく「希望」の…
古びて踏みつけられていく「心からの願いごと」の…
その成れの果てを見て、愕然とした。
私が願ったのは、こんなことではなかった、と。
それなら、冷酷な魔女と呼ばれようと、強欲だと思われようと
相手も自分も忘れないように願いごとに忘れ得ぬ刻印をすると決めた。
願いを聞くときにわざと心に痛みを伴うように振舞った
結果、願いの数と彼女の評判は音を立てる勢いで落ちた。

 とは言え、あまりにも長い時間、誰もやって来ない。
「真剣な望みを抱く者がいなくなったのか?」
魔女は何も見えない暗い空間に向かって目で問いかける。
「まあ、それも悪くない。私の鱗も随分減ってしまったし。」
あと何枚の鱗が自分に残っているのか、
明かりのない部屋の中では数えようもないけれど
みすぼらしい姿になってしまったことは見なくても分かる。
醜く爛れているであろう自身を彼女はそっと抱きしめた。

 どんな色だったのかも忘れ果てていた長い長い髪が
海の水に揺れて、何かに引っ掛かった。
ちょっと引っ張ると、手ごたえがあって何かが床に落ちる気配がした。
彼女は舌打ちすると、軽くため息をついた。

 指の先に小さな灯りをともす。
物が落ちた気配のする場所を覗きこむと、小さな額縁に入った絵が落ちていた。
「これも誰かの夢のお代。誰だったかな。」
魔女はふっと笑うと絵を拾い上げて、じっと見つめた。
「思い出せないけど…。これは美しいね。」
海よりも更に光を多く抱いた空の青。その空をバックに佇む真っ白な山。
そして、その山の手前に掛かる大きな虹。
海の中も光の届くような場所では色彩が豊かではあっても
魔女が住むような深海では、色味は極端に乏しかった。
これほどダイナミックなコントラストを見せる色彩は、浅い海ででさえ稀。
彼女は写真に見入った。

まだ遠い昔、まだ、彼女が魔女と呼ばれるようになるずっと前、
海の上まで泳いでいったことがあった。
人魚の掟にそって、人間の目に触れないような真夜中のことだった。
太陽のない空は青じゃなく、丸い月の浮かぶ深い藍の色で、
螺鈿を細かく砕いてばら撒いたようなものが一面に広がっていた。
それを星と呼ぶのだと知ったのは、あとのこと。
大きな音共に次々と輝くものは花火と言うもので、
海の中では決して見ることも触れることもない「火」で
出来ているものだということもあとで知った。
一瞬にして開いて、一瞬にして散って行くそれは
光の残像を魔女の胸の中に深く焼き付けた。
手に入れられる筈のないものを手に入れてみたい。
海の上で見た光景がもしかしたら彼女を魔女へと誘ったのかもしれない。

 写真を手にして微笑みながら昔のことを思い出している自分を
彼女は訝しく思った。
「歌ってみたり、灯りを点けたり、笑ったり。今日の私はホントにおかしいこと…。」
そのつぶやきは誰も聞くことなく、海の闇に溶けていく。
指先の灯りをそのままに、住まいの外へと彼女の視線が漂った。
「あ…。」
小さく叫んで、彼女は息を呑んだ。

 「マリン・スノー…。」
切れ目なく静かに落ちてくる白いものを誰がそう呼び始めたのか
彼女は知らない。
でもそれが、かつての命の欠片だということは知っていた。
命だったものの欠片はやがて降り積もり、
命の帰るべき場所へと帰るのだと聞いた。
自分もいつか、こんな風に欠片になってどこかへ帰る日が来るのだろうか?
降り続ける海の雪を見ながら、ぼんやりそんなことを考える。

 「北の海では、海の中でなく空から海へと雪が降るのだったな、確か。」
実際には見たことはなかったが、空から降る雪は
波間に辿り着くとふっと消えてしまうと聞いた。
掌で受けると、冷たい名残を残してやはり消えてしまうとも聞いた。
「触れてみたい、空から降る雪と言うものに。」
魔女の心がゆらりと動いて、彼女を取り囲む闇も揺らいだ。
「行ってみようか、海の上まで。」
彼女がつぶやくと、彼女を包む闇がその色を濃くした。
彼女のつぶやきで、彼女を包む水がその密度を増した。
でも、彼女は気がつかない。
暗く重い海が彼女をやんわり絡めとる。
「もう随分この洞からすら出ていない。無理だ…ろうか…。」
些細な弱気に付け込むように、海が更に彼女にまとわりつく。
指先にともした灯りが消えた。
彼女はゆっくり床に倒れていきながら、目をつぶる。

 まさに、身体が床に着くその瞬間に彼女はかっと目を見開いた。
「いいや、やってみなければ分からない。」
彼女はゆっくり身をくねらせてみた。大丈夫、動く。
尾びれもゆっくり動かしてみる。大丈夫、これも動いた。
今度は手で水をかいてみると、凍りついた時間が再び動き出すように
身体がゆっくりと前へと進んだ。
「大丈夫。泳ぎ方は忘れていない。」
少し笑ってから、自分を励ますように声に出す。
「大丈夫。出来る。」
するとその声に反応するかのように、深海の闇が更に濃さを増した。
ゴボボ…と、不気味な音がする中、魔女がもう一度身を捩った。
闇の中動いたせいか、何かにぶつかって、ちりっと痛みが走る。
鱗が一枚はがれて、細い糸のように血が一筋流れ出た。
チッと舌打ちするといつもより重たく感じる水を蹴って
彼女は洞の外へと泳ぎ出た。

 あとからあとから降りしきるマリン・スノーを暫くじっとしながら身に受けた。
勿論冷たいはずはなく、肌に溶けることもなく
かつて命だったものは白い粒子に姿を変えて彼女を滑り落ちていく。
ゆっくりと尾びれを動かして、降りしきる海の雪の中を突っ切るたび、
それがそっと彼女を撫でていった。

 深海を泳いでいた大王イカが彼女を見咎めて声を掛けてきた。
「これはこれは、深海の魔女。洞の外でお見かけするとはお珍しい。」
言葉自体は丁寧だが、その言葉の響きの中には確かに嫌悪感が混じっていた。
魔女は視線も合わすことなくイカの挨拶を黙殺する。
するとバカにしたように大きなあぶくを一つ吐きながら大王イカが言った。
「身も心も醜い魔女よ。お前は存在自体が不愉快だ。
他の者の目に留まらぬうちに、とっとと巣穴に帰るがいい。」
魔女はサラリとその言葉を無視して泳ぎ続けた。
「人魚の王国は平和そのもの。誰もお前の邪悪な力など必要としていないぞ、
ごうつくばりの魔女よ。お前が望むいざこざは起きないぞ。」
重ねて言い募るイカに、魔女は漸くチラリと視線を向けた。
が、薄く笑うと無言のままそのすぐ横をすり抜ける。
逆上したイカが腕を伸ばし、魔女の尾びれに絡ませた。
「見逃してやろうと思ったのに、無礼な子だね。
一体誰に物を言っていると思っているんだい?
私の邪魔をするなんて、千年は早いよ。」
静かに淡々と、荒ぶる様子のない声で言われたその言葉は
却って底知れぬ怒りをはらんでいて、イカは震え上がった。
でも、今更伸ばしてしまった腕を引くわけにも行かず、虚勢を張った。
「無礼とは笑わせる。穢れたお前に礼を説かれる謂れはない!」
魔女の顔に冷たい笑みが広がった。
「穢れた?私が穢れているとお前は言うのかい?
では、その穢れた私の尾に触れたお前にも穢れは広がったのだろうね?
成る程、その私に伸ばした腕を良く見てみるがいい。」
バチッと爆ぜるような音がして、イカは思わず痛みに腕を引っ込めた。
ちょうど魔女の尾びれに巻きつけたあたりから先がなくなっていて
端は黒ずんでいた。そして、その黒ずみは徐々に這い登るようにして
腕全体へ広がってきた。そのうちそれが全部の足に広がり始まり、
嫌な臭いを漂わせ始めた。
「生きながら、朽ちていけばよい。ふふ。」
残酷な言葉を浴びせられて、イカは凍りついた。
「た、助けて…。」
「さっきの威勢はどうしたね、ひよっこ? でも、もう遅い。
零れた言葉は口の中にはもう返らない。」
高らかに笑い声を残して、魔女は何事もなかったようにまた、上を目指した。
イカが恐怖に狂った叫び声を上げた。
「ちょっと薬が効きすぎたかね。ま、単なる幻覚だから、
すぐに落ち着くだろうけど。」
魔女の体からまた一枚鱗が剥がれ落ちて、海の底へ落ちていった。
その場所からまた、血が細く筋を引いて流れた。

 上へ上へ上へ。人魚たちの王国も通り過ぎ、更に上へ。
魔女はひたすらに上っていった。大王イカとの一件が噂にでもなったのか、
あのあとは、海の暴れん坊のオルカも、攻撃的なホオジロザメも
体の大きな鯨も手出ししてこなかった。
邪魔するものがいなくなった今、心配なのは自身の体力だった。
最も深い海から海面への道は遠い。ましてや、もうずっと小さな洞の中で過ごして
身体を動かすこともなかったことを考えると、辿り着けない気がした。
途中休んでしまえば、その場にとどまることさえ出来ず、沈んで行ってしまう。
だから、一気に泳ぎきる必要があるが、それが自分に出来るだろうかと怪しんだ。
加えて、海の中を上昇するにつれて自分でも目にすることが出来るようになった
我が身の惨状が胸を刺した。
思っていたよりも残っている鱗はずっと少なく、剥き出しになった肌は
赤く爛れて痛々しかった。逆に炎のように赤かった髪はプラチナの色だと言えば
聞こえはいいけれど、つまりは真っ白く不自然に波打っていた。
「この姿では、『穢れている』と言う言葉もあながち外れているとは言い難いねぇ。」
魔女はため息と共に独りごちた。

 地上に決まった風が吹くように、海の中でも決まった流れはある。
そんなことは、魔女は百も承知だった。だから、邪魔になるような流れは避けて、
道行きを助けてくれる流れは上手く捕まえて行く予定だった。
なのに、おかしい。見知った流れでないものが多く、悉く彼女の足を引っ張る。
尾びれを力強く振っても、ねっとりと纏わりついてくるような重たい水。
行く先をねじ曲げようとするかのような、小さいのに力のある渦。
体勢を立て直そうと、大きく身体をくねらせてバランスを取った。
「ん?」
何か不穏なものを感じて、彼女はすうっと目を細めた。
「あぁ、そういうことか。」
彼女が不適に笑った。
「怨嗟、と言うわけだね。私に恨みを持っているものたちの魂の残りカス。
でも、私を恨むのは筋違い。恨むなら、私欲にまみれた願い事を持ち込んだ者を
恨むがいい。筋違いの願い事をしてきた自身を呪え。
私はただ、その願いを叶えただけに過ぎないのだからね。」
その言葉に呼応するかのように、彼女を取り巻く水が更に深く悪意を帯びた。
さっきまでは透明だった水が、影を増して黒ずんだ緑に姿を変える。
それが腕に、髪に、腰に、尾びれに絡みついてくる。
それは、もはや水の手触りでなく、髪の毛か海草がまとわりついているかのような
感覚に近かった。
「あぁ、鬱陶しいっ! 逆恨みもいい加減におしっ!」
彼女の髪が逆立ったかと思うと、バチッと水中で火花が散った。
その衝撃で、青黒い水の戒めが緩む。が、またすぐに水は流れを作り絡み付いてきた。
また、バチッと音を立てて水の中、火花が散る。水の勢いがちょっと揺らいで
またすぐに、水がその勢いを取り戻す。
「く。キリがないね。これほどまでに恨まれていたか。」
彼女は片頬をゆがめて苦笑した。

 何度も何度も青黒い水の流れと火花を散らしながら、彼女はそれでも上へと
泳ぎ上っていくのを止めなかった。
火花を散らすたび、彼女の体から鱗が剥がれ落ちて、細く血の糸を引いていく。
そのたび、チリッとした痛みが彼女を襲うが、今はそれどころではなった。
小さいけれども力の強い渦が、どこまでも執拗に彼女を追いかけ、捕まえ
海底へと引き摺り下ろそうとするから。
彼女のイライラが、ピークに達して、とうとう瞳が金色に燃え上がった。
「手加減してやれば、図に乗りおって!もう我慢ならない!」
泳ぐのを止めると、彼女は、海中をゆっくり落ち始めた。
落ちれば落ちるほどに、魔女の身体全体が金色に輝きだし、
周りの水がビリビリと震え始めた。
「この世の最も濃き闇の中より生まれ出でし者たちよ、その姿を我が光の下に現せ。」
ぼんやりと影が凝り始めると、彼女は髪の毛を数本抜いた。
「流れと共に行け。口縄となりて、かの影を縛めよ。」
その言葉に応えるように髪が影へと向かい、そして、形のないはずの影を捕えた。
魔女は、喉の奥でククっと残酷さが滲むような短い笑い声を上げた。
「だから、何度も『優しく』忠告したに。身の程知らずが。思い知れ。」
彼女がそう静かに言い放つと、形を現したたくさんの影たちがブルルと震えた。
「存在の冥き者たちよ、その影薄き者どもはより闇深き場所へ堕ちよ。
翳り濃き者どもは光に焼かれ、二度と再び影の姿をとるなかれ。
来たれ、猛き裁きの矢!」
彼女が一際強く輝いたかと思うと、一瞬その強すぎる光で辺りは何も見えなくなった。
ジュッ、ジュッと耳障りな音を残して、捕えられた影たちは消滅していた。
「おやおや。全て消えてしまったか。私も随分と恨まれたものだね。」
他人事のように言い放つ彼女から、十数枚の鱗がまた水底を目指して落ちていく。
その鱗を追いかけるかのように、糸のように細く長く、血が滴り落ちていた。
 さすがに魔女の呼吸も荒くなっていた。

 少しずつ、明るさを増す海の中、カラフルな魚たちがその美しさを競う合うように
優雅に泳いでいた。
今では、どんな灯りを呼び出さなくても、周りがはっきり見えるほどになっていた。
まぶしくて、彼女は目を細めた。
このまま上がって行ったら、夜のみ許される海の上の世界での滞在
と言う人魚の掟に触れてしまう。
チラリとそんな思いが胸を掠めた自分を彼女が笑った。
人魚たちが住まう海の中の世界全てから、怖れられ、嫌悪され、
避けられ続けて随分と時が経っているのに「掟」など、今更のことだった。
ほんの少し生まれた躊躇いを振り払うようにして、彼女は大きく尾びれを振った。

 もう少し、あと少し。海と空がせめぎあっている場所がもう分かるほど
高く高く上ってきていた。海の水を透かして、青い空が揺れている。
「あともうちょっと。」
口の中で魔女が呟いた。
 手の指の先が、ふいに抵抗を感じなくなったと思ったら、
気が付いたときには、身体全体が海の上に飛び出ていた。
勢いあまって飛び出してしまった彼女の身体をしぶきと共に海が再び抱きとめる。
深海に長くとどまっていた彼女の青白い肌は、海水のクッションなくして
太陽の光を浴びたため、少し火傷したように赤くなったが、
それでも彼女は満足だった。
熱い空気を胸いっぱいに吸ってみる。胸の奥が焼け付くように痛む。
それでも彼女は気にしない。
仰向けになって海面を漂う。暗闇に慣れていた目の奥がガンガン痛んだ。
それも彼女は黙殺する。
海のように澄んだ深い青。もしかしたら、海よりも更に広大かもしれない青。
はぐれ雲がゆっくりその深い青の中を横切っていく。
彼女は空へと手を伸ばした。指先に風が戯れていく。
「光溢れる場所にご到着。」
稀代の魔女と呼ばれた彼女が、幼い子のようなまっさらな笑顔を浮かべた。
「願えば、叶う。命がけで祈れば、思いは叶う。雪は降っていないけど。」
誰に語ったわけでもないその言葉が、海を渡る風に流されるとき、
彼女にたった一枚残っていた鱗が最後の魔力を使い果たして剥がれ落ちた。
細い細い血の筋を引きながら、鱗がゆっくり海の中の世界へと落ちていく。
魔力を全て失った彼女の身体は、海の水に抱かれながらも急速に干からびていく。
それでも、彼女は笑むことを止められない。
「世界は美しい。」
その呟きを最後に彼女は静かに目を閉じた。
 朽ちた流木のような塊が、海の中を落ちていく。
それは、深くなるごとにサラサラと端から崩れていく。
あまりに密やかでささやかなその出来事に気がつくものは誰もいない。




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