独りでふらりと旅に出た。目的地は、特にない。
でも、どうしても、どうしても、日常と切り離されたかったのだ。
だから、荷物も、ほとんど持っていない。行き当たりばったりの旅。
ここは、古い街。適当に観光化されていて、見知らぬ私が街を歩いていても、
不審に思う人はいない。それでも、賑わっているというには、ちょっと無理があるかもしれない。
知らない街、知らない道、知らない建物、知らない人。
いつもなら、寂しく感じることも、今日は、心地いい。煩わしさを感じない。
白秋とはよく言ったものだ。紅葉している木々は、美しいけれど、それよりも、
白茶けた街並みのほうに気がそれる。何もかも、死んでいく冬に向かっている気配がある。
なんだか、しっくりくる。
細く入り組んだ道。古い街には、よくある形。よそ者である私を拒んでいるみたいな気がする。
ふと気が付けば、ここがどこだか分からない。さっき予約した旅館に帰りたいのに、
どこをどう通っていいのか、見当も付かない。
どうしようか・・・。あたりをキョロキョロ見回すと、古そうな店がある。
看板も字が読めないくらいで、古式ゆかしいというか、年季が入っているたたずまい。
私は、店の戸をくぐった。
「こんにちは・・・。」
店の中に声を掛ける。でも、すぐに声が全部吸い込まれたみたいな錯角に陥る。
「あの、すみません。」
もう一度、声を出してみる。やっぱり、音が吸い込まれていく気がする。
誰もいないのかと思って、帰ろうとしたとき、店の奥の影が揺れた。
「いらっしゃい。」
なんとも、穏やかそうなおじいさんが、メガネをちょいと持ち上げながら、出てきた。
「どれを、お気に入りで?」
おじいさんは、店をぐるりと見渡すようなしぐさをして、私に聞いてきた。
私も、つられて、店の品を見た。古そうなお皿やら、置物やらで、店はいっぱいだった。
歌にあるような大きな時計もある。どうやら、骨董屋だ。でも、買う気はない。
「あ、あの、道に迷ってしまって。」
おじいさんは、ニコニコしている。耳が遠いのかな。私は、大きな声で、もう一度繰り返す。
でも、おじいさんは、ニコニコ笑うばかり。
もしかして、見かけによらず、このおじいさん、食わせ物なのかも。
何か買うまで、出してくれないかもしれない。私は、周りをパパッと見渡して、
出来るだけ、値が張らなそうなものを探した。
それほど奥じゃないところに、綺麗なくしを見つけた。
薔薇の花が掘り込んであるそのくしは、黄色に近い茶色で、手になじみそうだった。
私は、くしを手に取った。
「ほう、お客さん、お目が高いねぇ。それは、ゲルダのくしだよ。
北の国の細工だよ。それに、見たところ、お客さんには、ぴったりの品だね。」
ぴったり?私は、髪に手をやった。あぁ、結構風が強かったからね。髪が乱れているのね。
「まぁ、一万と言いたいところだけれど、大まけにまけて、九千円かねぇ。
その代わり、大事にしておくれよ。」
おじいさんが、そろばんを弾いた。
「九千円?こんなくしが?」
おじいさんは、またしても、ニコニコ、ニコニコ。抗議しても、埒が明きそうもない。
仕方なく、私は、財布を出した。
教えられた道をたどって、旅館へ帰った。遠くをぼんやり眺めながら、露天風呂につかる。
知らず、ため息ばかりがこぼれてしまう。ついでに、湯煙のせいだけでなく、視界がぼやける。
体を綺麗に清めるみたいにゴシゴシ洗い、髪も洗った。抜け落ちそうなくらい、きつく洗った。
涙が出るのは、そのせいだと言い訳してみる。私のほか、誰もいないのに。
湯上りに、髪を拭いて、今日買ったくしを取り出した。思った通り、手になじむ。
ゆっくりゆっくり梳る。真っ直ぐな髪が、徐々に整っていく。
それにつれて、心も整っていく気がする。何度も何度も髪にくしを通す。
髪のつやが増していく気がする。なんだか、気持ちがすっきりしてきた。
あら、確かに逸品かも。鏡に映るわが身を見て、思わず、呟いた。
額をすっかり出したせいか、顔が明るく見えた。
朝起きて、髪にくしを通す。絡まることなく、スイスイ通る。鏡を覗いてみる。
なんだか、とても気分がいい。久しぶりに、紅を差してみる。顔の印象が、
がらりと変わって見える。鏡の中の私は、微笑んでいる。気分が明るい。でも、なぜだろう?
なにか、忘れているような。大丈夫。きっとすぐに思い出すから。
私は、街を歩きながら、ことあるごとに鏡を覗き込み、「ゲルダのくし」を使った。
使うたび、心が軽くなり、そして、我ながら、綺麗になった。
私は、嬉しくて、しょっちゅう髪をとかした。でも、同時に、心許ない気持ちも味わう。
何故だろうか。こんなに、気分がいいのに。
さて、もう帰らなくちゃ。と、思った。お金も無尽蔵に持ってるわけじゃないから。
でも、私は、どこへ帰ったら、いいんだろう?そもそも、私は誰なんだろう?
名前が思い出せない。私は、愕然とする。思い出せない。何もかも。
自分がどこから来たのかも、どうやって来たのかも、どうして来たのかも、
来る前どんな風に、どこに暮らしていたのかも。友達のことも、両親のことも分からない。
そんなはずはない!そんなはずはない!私はバックをひっくり返す。
自分の身分証明になるようなものを探して。震える指で、一つずつ探す。
免許書もない。名刺もない。ましてや保険証なんて持っていない。
どうしよう・・・。いつもは持っていたであろう携帯電話もない。誰にも連絡が取れない。
深呼吸をしてみる。ゆっくり気を落ち着けてみる。だめ、落ち着けない。
私は、手元にあったくしを無意識に手に取り、髪をすいた。
気分が段々落ち着いてくる。青ざめた顔に赤みが戻ってきた。鏡の中の私が微笑んだ。
あれ、私、何か慌てていたような・・・。でも、なんの焦りも心の中にない。おかしいな・・・。
気分が良くて、一日ぼんやり過ごしていた。服も着替えず、化粧もせず、髪は乱したままで、
ただ、窓辺のいすに座って、外の風景を見ていた。人が行きかう。一人一人の人生を思う。
ジワリと不安の影がよぎった。なんだろう?この嫌な感じ。顔を洗いに洗面所へ向かう。
鏡に映ったわが身を見た。髪はぼさぼさのまま、目がどことなく腫れぼったくて、
鬼女みたいに見えた。備え付けのブラシで髪をとかす。髪が整っていく。
でも、すっきりしない。どうして?何かが違うような・・・。
部屋に戻ると、テーブルの上に見知らぬくしがあった。薔薇の彫りものがしてある綺麗なくし。
誰のものだろう。仲居さんが落としたとか?そのまま、テーブルにおいて置こう。
黒い雲が、心の中に広がっていく気がする。何だろう、この不安感。
そして、少しずつ、思い出す。自分の名前、住んでいた場所、両親や、自分の家族のこと。
私は息を飲んだ。そうだ、私・・・。苦い思いが心から溢れてくる。
そうだ、あの日、主人と喧嘩した。
だから、主人は、娘と息子だけを連れて、水族館へ出掛けた。
途中、大きな地震がおきて、道路が裂け、私の家族が乗った車は、崖下に転落したのだ。
彼らは、もう、帰らない。
喧嘩しなければ良かった。私も一緒に行けばよかった。
一人ぼっちで残されて、私は、空っぽ。後悔しても、事態は変わらない。
だから、私は・・・、だから、私は・・・、死に場所を捜しに来たんだ、ここへ。
思い出した。頭がくらくらする。私はよろけてテーブルに手をついた。
からりとくしが音を立てた。
迷子になった日に買った「ゲルダのくし」。ゲルダ?
ゲルダって、『雪の女王』に出てこなかったっけ?その子のくし?あ、思い出した。
髪をすくたびにすべて忘れてしまうと言うくし。これがそのくし?
私は、もう一度くしを手に取って、じっと見つめた。
今しばらく、忘れてもいいよね。もう少ししたら、きっと立ち直るから。
お母さん、くしのせいじゃなくて、ちゃんと笑えるようになるから。
だから、もう一度使わせてね。
私は、再び、髪をとかした。
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