まどろむ飛行機


 ゆらり、ゆらりと一瞬ごとにその色を微妙に変える青い青い奥津城で、
年取った飛行機は、今日も魚を相手に昔話をしています。
「そう、わしは空の花形だったのだよ。わしは誰よりも早く飛べたのだ。
誰よりも高く飛べたのだ。」
魚たちは毎度同じ話に飽きもせず、そのつぶやきに耳を傾けます。
「それで、それで?空ってどんな?太陽ってどんな?」
同じ質問を魚たちは、これまた飽きもせず繰り返します。
「ああ、空は。」
年老いた飛行機は、夢見るようにため息を一つつきました。
そのため息は、彼の空への憧れのように上へ上へとたゆたって行きます。
「ここのように青いのだよ。どこまで行っても青いのだ。
そして、吹く風は波よりもずっとずっと軽やかにわしの体に触れていくのだよ。
わしはその風を切って飛ぶのが本当に好きだったな。
ふわりと浮かんだ雲は白くにごってはいるが、くらげよりも捕らえどころがないのだよ。
遠くから見れば、確かにそこにあるのにその中に入ると翼からこぼれ落ちてしまうのだ。
それでも、憧れずにはいられないのだがね。」
カラフルな魚たちが興奮して、みんな尾ひれを揺らしました。
上から微かに射す光がそれにつれて妖しく揺らめきます。
「それから、太陽だがね。あれは、あれは・・・何と言ったらいいのだろうね。
輝かしくて、輝かしくて、たった一度見ただけだって、決して忘れられない。
空があんなに青く澄んで美しいのは、太陽に恋してるからじゃないかと思うよ、わしは。」
話を聞いている魚たちはうっとりしたようにあぶくを一つずつ吐き出しました。
「では、月は?星は?」
せっかちな魚が尋ねます。
「まぁ、そんなにあわてなさんな。今話すところだから。」
老飛行機は、静かに笑って言いました。
「月もな、輝いているのだ。だが、太陽ほどではないんだよ。
もっとこう・・・冷ややかな光だな。
でも、それはそれでまた別の美しさなのだよ。
月はな、日毎夜毎に姿を変えるのだよ。
日によって空にいる時間さえ違うのだ。
あるときはさっさと地平のかなたに帰ってしまうし、
あるときは夜が開けきってしまってもまだ空にいるしな。
きっと、とても気まぐれなのだと思うな、わしは。」
そういって、老飛行機は一息入れました。
「星はな。星はお前たちの銀色の鱗のように空でわずかに瞬くのだ。
そして、気が向くとそれがいつであれ、空から一目散に地上に舞い降りる。
もしかしたら、美しい娘の上に降るのかもしれん。
娘の上に降り損ねた星が海に落ちているかも知れんぞ。
いつか見つけたものがいたら、この年寄りに教えておくれ。」
魚たちが期待を込めた目をして一斉に頷きました。
「なぁ、お前たち、知っているかい?空にはな『鳥』というものが住んでいるんだよ。」
「ええ、知っていますとも!ぼくたちの仲間を狙うやつらのことでしょう?
だから、ぼくらは気をつけなくちゃいけないんだ。そうでしょう?」
老飛行機は、ちょっと悲しそうに身じろぎしました。
「ああ、そうか。鳥たちはお前たちにとっては危険な生き物なのだね。
しかしな、わしにとっては良い友達だったよ。空を住処とする仲間だったのだ。
わしのもののように固くはないが、一対の立派な翼を持っていたな。
彼らもお前たちと同じように自由なものたちだった。」
「鳥たちを好きだった?」
「ああ、お前たちと同じくらいに。」
老飛行機が答えると、魚たちの間の水がざわめきました。
飛行機への失望からではなく、新しい意味での仲間を思って。
ざわめきが収まりかけたとき、話を聞いていた魚のうちの一匹が老飛行機に向かって尋ねました。
「ところで老師、老師は空がそんなに好きなのに、なぜ、海の底に来たの?」
飛行機は今までのおしゃべりがまるですべて幻だったのではないかと
思うほど急に、そして完全に黙り込みました。
魚たちのざわめきもピタリと静まり返りました。
遥か頭上の波の音が単調に響き渡ります。暫らくの沈黙が続いたあと、老飛行機は、
「それは、また次の機会にしよう。いつかまた次の機会にな。」
ぽつりと言いました。そして、魚たちは安堵のため息をつきました。
魚たちはおんぼろではあるけれど、穏やかな彼を愛していましたし、
大きな魚たちから自分たちを守ってくれることに感謝もしていました。
そしてまた、彼の空への想いも知っていましたから、老飛行機がもしかしたらそのまま
ふいっと行ってしまいそうな気がしたのでした。

 と、その時、静かな海には不似合いなエンジン音がしたかと思うと不自然な波紋が広がりました。
続いて、ドポンという鈍い音がしたかと思うと、これまた大きな波紋を広げました。
「人間だ!」
張り詰めた声で誰かが言うと、冷たいものが魚たちの鱗を撫でていきました。
パッと魚たちは瞬時に四方へ散っていきました。
 素早い魚たちがすっかりどこかへ行ってしまった後、
その不恰好な生き物はあぶくをそこら中に撒き散らしながら、
ゆっくりと漂い降りてきました。
その手には、アンコウのそれよりも明るい光、そして、カメラ。
「ゼロ戦だ・・・。」
その人のつぶやきが泡の一つに混じると、老飛行機が悲鳴を上げました。
「いやだ!いやだっ!空へ戻るのはいやだ!二度と飛ぶのはいやだ!
わしを連れ戻さんでくれ!わしをどうぞ放っておいてくれぇ!」
ダイバーは、そんな老飛行機の声には、気づかずに、
何枚も何枚も彼を前にシャッターを切りました。
やがて、満足そうに一つ頷くと、来たときと同じように
やはりゆっくりと水面へ上がって行きました。
 「老師・・・?」
人間の姿がすっかり見えなくなってから、
老飛行機の陰に隠れていた小さな魚が声を掛けました。
「ああ、お前はそこにいたのか。」
嗚咽に少しだけ身を震わせながら、老飛行機が言いました。
「老師、老師は空が・・・」
「そう、好きだった。わしは飛ぶのが本当にな、大好きだったのだよ。」
長い長い間をおいてから、彼は語りました。
「だが、わしが飛べば、地上は悲鳴に満ち溢れた。
わしの通った後は、炎の海と、破壊とだけが残った。
わしはお前たちや空と同じくらいに地上の命も愛していた。
なのに、わしは、わしは・・・」
あとは言葉になりませんでした。
でも、短いけれど、衝撃的な言葉に小さな魚は老飛行機の気持ちを察することが出来ました。
「老師、もういいよ。もういいんだ。老師の空はいつだってきれいで優しいじゃないか。
それで、十分だとぼくは思うよ。」
老飛行機は黙っていました。小さな魚には、過去を飛んでいるように見えました。
「老師、明日はまた、いつものように皆にお話してよね。」
小さな声でそれだけ言うと、小さな魚もどこへともなく泳ぎ去りました。

 翌日、あいも変わらず魚たちは老飛行機の周りに集まって彼に話をねだりました。
老飛行機も相変わらず、穏やかに語りますが、しかし、前よりもずっと口少なになりました。
そして、明日も、明日も優しい空の夢を魚たちに預けながら、彼はまどろみの中、
静かに朽ちていくのでした。




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