風、染まる


 きゅきゅっと帯を締め上げる。
長い時間をかけて、丁寧に丁寧に髪を梳る。
黒くてつややかな髪は、その間、一本たりとも抜け落ちることはない。
黒目がちな目は一重で涼やか、
肌は指先に至るまでぬけるように白くて、一点のシミもない。
その指も長く華奢なつくりで小さな傷の一つすらない。
 薬指ですぅっと唇に紅を引く。畳紙を軽くくわえて仕上げ、
彼女は、鏡の中の自分に艶然と微笑んだ。
 今日もきれいに整った。彼女は満足気に息を吐いた。

 毎日毎日、同じように身なりを整え、彼女はひっそりと時を過ごす。
時間は、彼女を衰えさせるどころか、磨き上げ、
その美の完成度は日毎に高くなるばかりだった。
 そして彼女はその美貌をもって待っている。
蜘蛛が繊細で美しい巣でじっと獲物を待つように、
朱い花の咲く庭のその向こう、奥つ城のような館で一人きりで。

 彼女にはこれと言ってすることはない。
ただ、時を過ごすだけ。
気まぐれに庭に下りて、花を摘んでは口にしてみるけれど、
それとて、さして意味のあることではない。
彼女には何を口にしなくても、死は訪れはしないから。
ただ、気の遠くなるような永遠に近い時間があるだけ。
彼女がいるのは、時間と言う名の牢獄。
できることは…、許されることは、ただ思い出すことだけ。
哀れな迷い人を待つほかには。

 一番最初にここにやって来たのは、千鳥と太平。
彼女−初瀬−が時の牢獄に囚われる身となったきっかけそのものの二人。
今でもふと、太平があの時自分を思い出してくれていたら、
自分はどんな風になっていただろうかと、初瀬は思う。
思い出したら、千鳥よりも自分を選んでくれただろうか?とも。
そしていつでも緩やかにそれを否定する。
あの時の自分では、あの煤けた自分では、それは無理だっただろうと、
やはりそう思えるのだ。


 それから暫くして、庭に迷い込んできたのも男女の二人連れだった。
その時には、初瀬はもう人ではなかった。
初瀬は時間と花とを食べて、時を遡るように、美しくなっていた。
 女は病を得ていたようで、やつれ果てていた。
男は女を気遣いながらも、心の底ではため息をついているのが、
初瀬には分かった。
 初瀬の奥底で、ごうっと炎が燃え上がる。

 初瀬は、静かに罠を張る。蜘蛛が巣を掛けるように音もなく。
そう、初瀬はただ微笑めばいいのだ。
一点の曇りもないような美貌で、優しく見えるようにただ微笑めば。
そして、男が一人でいるときを見計らい、
そっと寂しげなため息をつくだけでいい。
「奥さまが快癒なされたら、行ってしまわれるのですね。」
と、ふいっと目を伏せればいのだ。
 ささやかな毒は広がっていくだろう。
もし、男が女を裏切るような人間だったなら。
太平のように、妻を忘れて他の女に走るような男ならば。
 果たして男は、初瀬の手をとってしまった。
「もし、あなたが望むなら…。」
と、思わず初瀬を掻き抱いてしまった。
「もし、わたくしが望むなら…???」
顔を男の肩にもたせかけ、背中の向こう、笑わない瞳で初瀬は問うた。
でも、男が返事をする前にその腕を振りほどき
「その先は、仰ってはいけません。わたくしは一人でも大丈夫。」
初瀬は言い放つ。
でも、人の心とは不思議なもの、そう言われれば逆にはたらく。
魔物の勘で初瀬は知っているのだ。
 男の心には、じわりと初瀬の放った毒が広がる。
いや、初瀬は、男の心の中にある闇の扉を開いただけだったか。

 男が妻を手に掛けたのは、その晩だった。
病で手足がなえていた妻は、抵抗も出来ずに息絶えた。

 男は同じ晩、初瀬の正体を見ることになる。
そして、自分の愚かさと、自分の心の冥さをも知ることになった。
尤も、全ては遅すぎたけれども。

 二人のむくろは、無造作に庭へ捨てられた。
禍々しいほどに朱い花が、それを包み込むようにして初瀬の目から隠す。
やがて二人は朽ち果てて、朱い花をますます濃い朱に咲かせる糧になった。
 初瀬は血に酔うようになった…。
 小石で乱された水面がまた静かに戻るように時はまた平静を装う。
初瀬はまた、永遠と言う名の牢獄の囚われ人に返る。
新たな生け贄がやってくるまで。

 次に迷い込んできたのは誰だったろうか。
初瀬は、思いを馳せてみる。
でも、思い出せないほど昔の出来事になってしまっていた。
ここを訪れるものは極少なく、流れる時間は膨大だったから。

 泥棒もいたし、人殺しもいた。旅の役者もいたし、恋人を亡くしたばかりの男も。
でも、ここを訪れたものは等しく、ここから出て行くことはなく、
花の群れは益々朱く咲き誇ることになった。




〜 後編へ続く 〜


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