Fly High


 朝っていつ終わるんだろう?えっ?夜が来たらって、そういう意味じゃなくて。
夜の来ない朝で、明けない朝、全てが止まる朝のことだよ。昇っていく太陽に訊いてみた。
太陽はもちろん何も言わない。太陽だって単なる星の一つだから。

 昨日は何をしていたっけ?よく思い出せない。あ、そうだ。昨日は英語。
その前は習字、その前はスイミング。その合間にボクは学校へ行く。
友だち?おしやべりする程度のヤツならいるけど。長い休み時間に遊ぶ友だちはいない。
だって、ボク毎日眠くて、休み時間に起きていられないんだ。
クラスのヤツはそういうボクをつまんないヤツだと思っているみたいだけど、どう思われても、
ボクには関係ない。ボクに変なちょっかいさえ出してこなければ、それでいい。

 家への道を歩きながら、今日のスケジュールを思い描く。先ずは帰って、
カップラーメンすする。
ママがいたら、何かもうちょっとましなおやつが食べられるのかしらん?
でも、もう少しましな物って?よく分からない。興味もあまりわかない。
だってママはいないんだし。
ママはボクの習い事のお金を作るために仕事をしている。
「あなたのためよ。」
って言ってるから、たぶんそうなんだろう。ママはボクに嘘ついたりしない。
 ラーメンを半分すすってボクはダンススクールへ向かう。ここでみっちりタップの
レッスンをする。 汗をぐっしょりかいて、干物になっていく気がする。
「水泳もタップダンスも全身運動で、体のためにとてもいいのよ。」
確かに両方やり始めてからボクは丈夫になったから、そうなんだろう。
リズミカルな自分の足音を聞きながらそう思った。
ふと、隣の隣の女の子が、とても楽しそうにタップを踏んでいるのが目に入った。
あの子、何であんなに楽しそうなんだろう?すごい下手くそなのに。
まるでタップが楽しいみたいに見える。ボクにはわからない。

 天気予報では晴れだったのに、算数の時間が始まるのと同時に勢いよく雨が降ってきた。
帰る頃には止むかしらん?雨に濡れるのは好きじやない。今日はそろばんだから、
荷物も多いし。数字のたくさん書かれた黒板をながめながら、ボクはボンヤリ考える。
「先生っ。虹だ。虹が出たよっ!」
突然誰かが嬉しそうに叫んだ。
「まあ、本当。きれいね。」
先生も授業の手を止めた。
「私も見た−い。」
みんな一斉に窓に駆け寄って、あっと言う間に鈴なり状態になった。
ボクは雨に濡れずに済みそうなのでホッとする。
でも、同時に何でみんなが虹を見に行ったのかわからない。
虹は、空気に含まれる水分がプリズムとなって太陽の光を色別に分けたもの。
最初から、そこにある光が分かれて見えるだけのことじやない。学習塾で習った。
なのに座ったままのボクを見て、先生はちょっと不思議そうな顔をした。

 昼ご飯をコンビニで済ませて、そのまま楽譜を抱えてバスに乗り込んだ。
後ろの席の小さな子が、雲をいろいろなものに置きかえている。
「何で車になったり、ワンちゃんになったりするの?ねえ、乗ってみたら、
ふわふわで気持ちよさそうだよね。」
ママらしい人に訊いている。ボクはそっと心の中で答える。
「それは単なる君の思い込み。雲の形は偶然の産物。ちなみに乗れないよ。
近くに行ったら、霧と変わらないんだ。」
でも、ボクは同じ雲を見ていても、車にも犬にも見えなかった。
この子が何で色々なものに見えるのか、そっちの方が不思議だ。

 ピアノのレッスンは、いつも三人順番に受ける。練習曲にミスが無くなると、
次の練習曲に移る。そうやって、練習を重ねて、ショパンやラフマニノフを弾けるように
なるんだって。
「楽器なんかは情操教育にいいんですって。ピアノの先生を見つけておいたわ。」
そしてママは付け加える。
「あなたのためよ。」
ママがそう言うなら、ピアノもボクのためなんだろう。
でも、ボクには先生の弾くベートーベンも、ボクの弾く練習曲もそう変わらなく聞こえる。
音楽ってただ耳に騒がしいだけじゃないの?音符っていう記号を追いかけるだけ
のことじゃない。
それがどうして「美しい心」に結びつくのか、ボクにはわからない。
 レッスンを終える頃には、もう夕方になっている。
「うわあ、きれいな夕焼け。明日も晴れね、きっと。」
一緒にレッスンを受けてた四つ上の子が誰にともなく言った。
「昼間はあんなに青いのに、不思議ね。今は燃えているみたいに赤いなんて。
ねぇ、そう思わない?」
ボクはそう話を振られて少したじろいだ。
「そ、それは昼間太陽の光は大気圏に対して…。」
ボクが言いかけると、その子は頭を振った。
「違う、違う。ねえ、あなたって頭と心が一緒なの?」
ボクには意味が分からない。頭も心も脳にあるから、一緒なはずだ。
何か答えを言わなくちゃと思って振り向いたときにはもう女の子はいなかった。

 明日は朝からスイミングだから、早く帰って眠らなきゃ。今日はママ帰っているかしらん?
ま、どっちにしても眠くておしゃべりできそうもないけど。
ボクはどこかふわふわするからだを引っ張るようにして、バスに乗り込んだ。

 朝、目が覚めても体はどこか頼りない気がした。
階段を下りる足が五ミリくらい浮いている感じで、コトンコトンと言う足音が、
まるで自分のじゃないみたいだった。
 朝食はもう用意されていて、ママは疲れた声で、ボクにおはようを言った。
でも、いつものようにメニューは完璧。サラダも用意されてるし、牛乳も忘れてはいない。
ママはどんなに疲れていても、ボクのためなら手抜きなんてしない。
「早く着替えて、ごはんを食べなさい。今日はスイミングでしょ?遅れるわよ。」
ボクはおはようだけ言って、急いで支度した。ふわふわするのは黙っていた。
だって、ママに悪いじゃない?疲れているのにボクのために朝早くから起きて
準備してくれているのにさ。

 確かにボクはここに来てから、大分泳げるようになったけど、だからって何なんだろう?
ボクの隣に並んで順番を待っているヤツは思い詰めた顔をしている。
今日はタイムを計る日だけど、別にいいじゃない。どんなタイムが出ようとさ。
オリンピックを目指してるわけでもないだろう?ちょっとした時間の多い少ないで喜んだり
落ち込んだりなんてバカげてるよ。どんなに早く泳げるようになったって、服着たままだったら、
川で溺れちゃったりするんだよ。
 ボクの番が来て、ボクはプールに飛び込んだ。
一瞬空を飛べるんじゃないかと思ったくらい体が変に軽かった。
いつもより、大きいしぶきを上げた後、ボクは泳ぎ始めた。


 ふと、頭を上げたとき、水の感覚はボクのまわりになかった。ボクは空を飛んでいた。
そんなはず無い。人間は飛行機とかバルーンとかの力を借りなければ飛べないんだから。
ボクは水着一つでプールに飛び込んだんだから、飛んでるわけがない。
確かに体は妙に軽かったけど、ボクには羽が無いんだからさ。
と、思ったけどボクの背中に羽があった。と言うよりボクはボクじゃなくなっていた。
ボクは一匹の白い蝶になって室内プールの上を頼りなく飛んでいた。
驚いて下を見ると、人間のボクがプールの底に沈んで海草みたいにゆらゆら漂っていた。
インストラクターの先生たちが慌ててボクを引き上げるのが見えた。ボクは笑った。
だって、すごい光景じゃない?みんなで抜け殻のボクを助け上げてるのを
上からボクが見てるなんて。

 そしてボクは、蒸し暑いプールをそっと抜け出した。

 風が気持ちよかった。ボクはその風の中、木の葉にとまって眠ることにした。
ずっとずっとボクは眠かったから。そして今度は眠りながら風の中に溶けてしまう気がした。

 そうやってボクは心いくまで眠って、目が覚めた。どれくらい時間が経ったんだろう?
ほんの五分眠っただけの気もするし、百年くらい眠った気もする。
どっちでもいいや、とにかくたくさん眠って頭がすっきりした。
さて、これからどうしよう?
そしてボクは気付いた。ボクは眠ること以外やりたいことがなかった。
行きたいところもないし、見たい物もない。特に食べたい物もない。
ボクはただ空をボンヤリと見つめ続けた。

 ボクは…、ボクは…、ただ、空っぽだった。今までちっとも気がつかなかったけれど。
じゃあ、ボクって本当にいたんだろうか?何か変だけれど、ボクは疑いたくなってきた。
変なことを考えてるボクがここにいるのに。

 そんなボクの横をカタツムリがゆっくりゆっくり歩いていく。ボクは合わせてついていく。
はは、のろまなの。でも、本人は何にも気にしてない。今度はトンボとすれ違った。
方向を変えて、今度はトンボと競争した。でも、こっちはなんて速いんだろう?
蝶々の飛び方じゃ全然追いつかない。ちょっと悔しかった。

そして、悔しいと思った自分にボクは驚いた。ボクは、少しだけ自分の中が詰まった気がした。
 雨が降ってきた。蝶になってると、雨粒ってなんて大きいんだろう。当たったら痛そうだな。
でも、暗い銀色に光って椅麗だ。ボクは今まで雨も見たことがなかったんだって分かった。
ただ、目に映っていただけだったって。そう思って周りを「見て」みると、
世界はなんて綺麗なんだろう?今なら、雲がいろんな形に見えるし、
夕焼けも、星空も不思議だって思える。砂の山が風に崩れていくのさえ、
あんまり綺麗でわくわくする。重たい体を置いてきたからかしらん?
今なら、音楽を聴いたら違って聞こえるんだろうか?雨の降る音が素敵に聞こえるように。
ボクの中に空っぽのコップがあって、今、それがワーツといっぱいになって溢れていくみたいだ。
ボクは今、確かにここにいる。ん?じやあ、ボクのあの体はどうなったんだろう?
ふと、気になった途端、体に引き戻されたかのように、ボクはその上を飛んでいた。

 色々体に取り付けられて、顔色は真っ青、一目でボクが死にかけてるのが分かった。
そうか、ボクはプールで溺れたんだったな。ママがボクの枕元に座って、
ボクの手を握っている。ボクに負けないくらい青ざめた顔で泣いている。
パパは相変わらす仕事なんだな。
だって、ボクの周りに見あたらないもの。ママも忙しいのによく病院に来たなぁ。
でも、泣いているのは、ボクのためじゃない。
自分の子供を亡くしそうな、自分自身のために泣いている。
そうか、今までもそうだったんだな。何でもきちんとやっていたのはボクやパパのためじゃない、
ちゃんとやって満足するため、ママのため、だったんだ。
なんだかボクは少しホッとした。

 戻ることもできるって何となく感じた。でも、また眠たい毎日に帰る?
今ならボクにも分かる。眠りたいって思い続けることは、遠回しに死にたいと思うことだって。
ボクは知らないうちに死にたがってたんだ。ママはママのために生きてるって分かってたら、
こんなに窮屈なこともなかったかもしれないな。でも、もうそんなことどうでもいいや。
ボクは確かにここにいる。だから、もう重たい体は要らないや。
ボクはもっといろんな物と一緒にいたい。
もっといろんな物を見てみたい、もっと色々感じてみたい。
ボクは初めていろんな事を知りたいと思った。うん、決めた。
さよならボクの重たい体。さよならママ、さよならパパ。ボクは初めて心から晴れやかに笑った。

 バイバイ、きのうまでの全部!ボクは病室を後にした。




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