Mr.ブラウンの恋

 季節に色を変えられた銀杏の葉が一枚、Mrブラウンの鼻先を
掠めて落ちていきました。
いつもはレンガの赤い道も、今は、道の両側からの落ち葉で黄色一色です。
 Mrブラウンは、あらかた枝ばかりになった木を透かして、空を見上げました。
いつの間にか、空気は澄んで、空は高く、深い青の色をしていました。
Mrブラウンは、初めて彼女‐サユラ‐と出会った日のことを思い出していました。


 イラつくほどによく晴れた夏の日でした。
地面からの照り返しが、きつくて、頭がくらくらするような日でした。
なぜか、執拗に自分を探す追っ手。彼は疲れていました。
「もう、どうでもいいか・・・。」そんな思いが、頭の中で、
渦を巻き始めていました。
 足が上がらなくなって、一つ溜息が漏れました。
と、同時にしがみついていた意識が遠のいていきました。

 体にひんやりとした感じが心地よく、彼はうっすらと目を開けました。
最初に目に入ったのは、揺れる木の枝。
風が吹くたびに葉がそよいで、チラチラと木漏れ日が目を射しました。
 陽に透ける緑の葉は美しく、その合間を縫って降り注ぐ陽の光も綺麗でした。
耳の中を風が優しく通り抜けて行きます。
さわさわ言う葉ずれの音もなんて耳に優しいのでしょう。
でも、それよりも優しげな音が、彼の上に降って来ました。
「あ、目が覚めたのね。怪我はないようだけど、大丈夫かな?」
彼は、でも、首をちょっともたげただけで、何も答えませんでした。
「あなた、まだ、小さくてよかったわ。大きかったら、
私じゃ抱かかえられなかったものね。」
(あぁ、この人が助けてくれたのか・・・。)
彼は、気を失う前のことを思い出しました。

 「首輪はしてないみたいね。ってことは、野良くんなのね。
でも、きれいな毛並み。明るい茶色で。目の周りが片方だけ白いのね。
まるで、鼻眼鏡をした昔のイギリス紳士みたいね。」
そう彼に話しかけて、彼女は少し笑いました。そして、
「ね、Mrブラウン?」
と彼に呼びかけました。Mrブラウンになった小さな犬は、
初めて人間に尾を振りました。
「私は、サユラよ。」
尾を振るMrブラウンを見て、サユラはまたニッコリしました。

 「さて、と。」
暫らくして、サユラがカクンカクンと立ち上がりました。
「私は帰るけど、一緒に来る?Mrブラウン?」
Mrブラウンは、その声につられて立ち上がりました。
「そ、来るのね。じゃ、こっちよ。」
サユラが手招きしたので、Mrブラウンはついて行くことにしました。
サユラは、カックン、カックンと3本の足でゆっくり歩いて行きます。
Mrブラウンは、不思議そうにサユラを覗き込みました。
「あら、遅い?でも、仕方ないのよ。私、足が悪くってね。
だから、あなたと一緒に走り回ったりは出来ないの。がっかりした?」
Mrブラウンは、返事の変わりにしっぽをゆっくり振りました。
「そう、それでもいいの。良かったわ。紳士ね、Mrブラウンは。」
サユラは少し不自由そうにかがんで、Mrブラウンの頭をグリグリグリッと
撫で回しました。
Mrブラウンには初めての体験でしたが、嫌な感じは微塵もせず、
むしろ、ざわざわと嬉しさがわいてくる気がして、更にしっぽを振りました。

 四角い建物の前につくと、サユラがふぅっと息を吐きました。
「ここが、私のお城なのよ。でも、全部じゃないの。
あそこの一番端っこの小さな部屋がそうなの。
でもねぇ、ここが、難関なのよ。」
そう言うと、サユラは、ひょこっと入り口近くを覗き込みました。
「あらら、管理人さん、今日は珍しく居眠りしてない。ついてないわ。」
サユラが軽く舌打ちしました。その様子をMrブラウンはじっと見ています。
「仕方ない。お客さんをお招きするのに、そぐわないけど・・・。
こっちへ来て、Mrブラウン。」
垣根をぐるりと回って、サユラの部屋の前あたりまで来ると、
サユラは、キョロキョロと辺りを見回しました。
「誰もいないみたい。よし。Mrブラウン、ここで待ってて。
中から引っ張って入れるから!」
Mrブラウンはその場で、ごろんと横になりました。
「ま、言ってることが全部分かってるみたい。ふふ。そうそう。
そうやって待っててね。出来るだけ、急いで来るからね。」

 サユラがでも、自分の部屋に着いたときには、Mrブラウンは、
そこにいませんでした。
「そっか、そうだよね。言葉が通じるわけないよね。
長い時間を待たなきゃならなかったしね。」
サユラは首を振って、小さくため息をつきました。

 次の日も、良く晴れた暑い日でした。
サユラの部屋の窓は全開になっていて、だから、
垣根がガサゴソ言う音が良く聞こえました。
サユラが揺れる垣根のあたりに目をやると、茶色の頭が覗きました。
「まさか、Mrブラウン?」
ひょっこり出てきたのは、果たして、Mrブラウンでした。
しかも、口には一輪花を咥えています。ただ、その花は、垣根を越えるときに
ボロボロになってしまっていましたけれども。
「私に花を持ってきてくれたの?」
サユラは最初、目を丸くして、それから、キラキラと笑いました。
Mrブラウンは、胸の奥がキュッと熱くなりました。

 「狭くて、散らかっておりますが、どうぞ、Mrブラウン。」
サユラが招いた小さな部屋は、確かに足の踏み場もないくらいに
画材が広がっていました。
窓は開け放してあっても、絵の具のにおいでむせかえりそうです。
サユラは器用にイーゼルなどをよけながら、Mrブラウンに冷たい牛乳を
ご馳走しました。
 これを始めに、Mrブラウンは、サユラをちょくちょく訪ねるようになりました。

(あの頃は、子供だったけど、僕はもう大人だから!
だから、サユラは、僕が守ってあげるんだ。)
季節を重ねて、大きくなったMrブラウンは、そう思うようになりました。
初めて会った日のことを思い出せば、サユラとずっと一緒にいることは
無理だと分かっていました。
犬に好意的な人ばかりじゃないことは、逃げ回っていたときの記憶に
生々しいものでしたから。
けれど、サユラと一緒にいたい気持ちは抑えられません。
サユラが出掛けるときは、必ず、どこからともなく、やってきて、
サユラの傍らを歩きました。
 サユラの部屋を訪ねるときは、静かにサユラの絵を眺めていることが
多くなりました。サユラはそれを見ると笑いました。
「絵が、解るの?Mrブラウン?」
(解るさ。勿論。)
勿論、絵の芸術的価値など、Mrブラウンは解りません。
ただ、解るのは、サユラの絵からはいつも、温かい日差しのようなものが
溢れていると言うことだけ。
Mrブラウンは、サユラの絵もまた、好きでした。

 秋の深まった道を越え、垣根をくぐって、今日も、サユラの城を訪ねて、
Mrブラウンは、やってきました。
でも、垣根をくぐったところで、Mrブラウンは、立ち止まりました。
変です。いつものまとわりついてくるような絵の具のにおいがしません。
その代わりに花のにおい。
Mrブラウンは、おそるおそるサユラの部屋を覗いてみました。
中に、サユラはいました。大きな花束を夢見るような瞳で抱えて。
いつもは所狭しと置かれているキャンバスも筆も、今日は見当たりません。
見えるのは、小さなテーブルに置かれた2つのティーカップと
見知らぬサユラと、そして…。見知らぬ男だけ。
「サユラ!サユラ!サユラ!僕、ここにいるのに気が付かないの?
その人誰?何故、サユラと一緒にいるの?」
声にならない声で、Mrブラウンは、叫びました。
でも、サユラは気が付きません。楽しそうに笑うサユラ。
でも、それは、Mrブラウン故じゃない。
いつもと違うサユラの声。張り詰めた感じのない、安心感に溢れた声。
「僕には、あんな声で話さない…。」
自分の中の温かいものが、全て流れ出てしまうような気がしました。
立っていられないほど、地面が揺らいでいます。
ここを立ち去りたいのに、体がこわばって、動くことが出来ません。
Mrブラウンは、涙のこぼれない目で泣きました。

 テーブルの向かいの人と連れ立って、サユラは出掛けていきました。
サユラのゆっくりした歩調に合わせて、ゆっくり、ゆっくりと。
サユラの視線の先にいるのは、その人。
サユラのキラキラした笑顔を向けられているのは、その人。
サユラの傍らを行くのは、その人。
Mrブラウンではなく…。
その歩みは遅くても、確実にMrブラウンから離れて行きます。
遠ざかる足音は、Mrブラウンの胸の底をチリチリと焦がしました。
追いかけることも出来ず、かと言って、背を向けることも出来ず、
Mrブラウンはその場に立ち尽くすしか出来ませんでした。

 小さくなっていくサユラの足音に代わって、不安な音が近付いてきました。
そう広くもない道に割り込むようなエンジン音。
振り向けば、そこには、真っ赤な車が迫っていました。
気楽に片手でハンドルを操り、片手には携帯電話。
話に夢中になっているドライバーは、ろくに周りを見ていません。
そして、その車の行く先には、揺れるサユラの姿が。
(今から走っても、間に合わない。)
Mrブラウンの心臓を冷たい手が鷲掴みしました。
(ダメだ。そんなの許せない!サユラは僕が守る!)
Mrブラウンは走り出し、いきなり方向を変えて、車の前に跳び出して行きました。
 ドンッ!鈍い音が響きました。さすがにその感触に驚いて、
ドライバーは、ブレーキを踏みました。けれども既に、軽い犬の体は宙を舞い、
どさりと道端に落ちました。
「なんだ、犬か。良かった。子供なんかじゃなくって。」
車は、速度を落としながら、でも、Mrブラウンの様子を見ることもなく、
走り去っていきました。
「やっぱり、サユラを守るのは、僕だったでしょ?」
Mrブラウンは、小さく唸りました。
「サユラ、でも、僕もうダメみたいだよ。
ねぇ、サユラ。もう一度、キラキラ輝く笑顔が見たいよ。
だから、もう一度だけ、振り向いて、僕に気付いて…。」
そう呟いて、でも、と続けて思いました。
「やっぱりダメ。振り向かないで。
優しいサユラは、僕を見たら、きっと泣くから。
サユラ、振り向かないで、そのまま行って…。」
Mrブラウンは、そして、目をゆっくり閉じました。

 小さな女の子が、道端に倒れた血だらけの犬に気が付いて、悲鳴を上げました。
その声の異常さに、サユラが今、振り返ろうとしていました。



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