警   告


 真夜中に目が覚めた。
嫌な汗が身体を濡らして、呼吸が荒くなる。
「まずいことになった…。」
夜の闇の中、胸の前でぎゅっとこぶしを握り締め、村雨が呟く。
布団の上に起き上がり、左横に束ねた髪を背中側へと払った。
身体をひねって傍らに眠る幼い狭霧の顔を見つめる。
狭霧は、安らかな寝息を立てていて起きる様子はない。
「いい子ね…。」
村雨が愛しげにゆっくりその頭をなでた。
でも、その顔に浮かべた優しげな微笑は、みるみる苦痛に歪んでいく。
「守りきれないかもしれない。狭霧…。」

 村雨がカラフルな糸を使って何事かを始めたのは、
その翌日からだった。
丁寧に丁寧に織られていく幅1センチほどの紐は
不思議な模様が織り込んであった。
規則的なようで不規則で、文字のようで、そうでないようで。
何色も何色も使われて出来上がった少し雑然とした印象のそれを
ニコニコしながら村雨は狭霧に見せた。
「狭霧、狭霧。これはね、お母さんから狭霧にプレゼントだよ。
着けてあげるから、左のアンヨ出して。」
プレゼント、と言う言葉の響きに嬉しくなって、
狭霧は言われるままに左足を出した。
村雨は、二度ほどその足をさするように撫でると
その足首に出来上がったばかりの紐を結びつけた。
「お守りだよ〜、狭霧。お守りだから、ぜ〜〜〜ったい外しちゃダメだからね。
お母さんと、お約束だぞ〜。」
村雨はそう言いながら、狭霧と額同士をくっつけて笑った。
「分かった! 狭霧、これ、ぜ〜〜ったい外さないよ!
お母さん、ありがとう!」
瞳を覗きこんでくれるようにしてくれるおでこのゴッツンが嬉しくて
狭霧がキャッキャと笑った。
その様子を見て、優しく微笑んだ村雨の瞳の奥が悲しく揺れていたのを
狭霧は気がつかなかった。

 村雨が亡くなったのは、狭霧の足に紐を結んだ日から、
丁度一週間後のことだった。
いつものように夜眠って、
そして…
いつもの朝を迎えるはずだったのに、村雨は目覚めなかった。
少し笑ったようにして、でも、冷たく動かなくなってしまった村雨に驚き、
狭霧は、縋って大泣きした。
その狭霧の様子を、村雨の父親である群雲は、冷ややかに見つめていた。
「だから止めておけと言ったのに。自ら寿命を縮めたか。
父より早く逝くとは。親不孝者だ…。」
群雲がそっと涙ぐんだ。
同じ悲しみを見て取って、狭霧が群雲に声を掛けた。
「おじいちゃん…。」
ところが、心細さに震える狭霧を見ても、群雲は励ますどこか
狭霧に一切触れることなく、つまりは抱きしめることもなく、
手先の動き一つだけで、遠ざけた。
それどころか、狭霧を見る目は、厳しい拒絶に満ちていた。
狭霧は、恐ろしさに身がすくんで動けなくなる。
そんな狭霧に、追い討ちをかけるように群雲が呟く。
「私を祖父と呼ぶな。私はお前の祖父ではないのだから。
村雨がお前の母でないのと同様に。」

 狭霧は、群雲の眼差しと言葉に射抜かれて、凍りついた。
同時に激しい混乱が襲ってくる。
(お母さんが、お母さんじゃない? それってどういうこと?)

 小さな街の小さくて古い神社の娘の巫女が亡くなった知らせは
すぐに街中に広がった。
神の元へと再び帰り、一族を見守る神となるための通過点とは言え、
死は穢れ故に村雨の身体は、神社の外へと運び出される。
雲一つない真っ青な空の下、いつの間にか祭壇が設えられていて
その向こうに白い小袖を着た村雨は静かに横たえられた。

 通夜祭、そして、遷霊祭に街の人たちが次々と訪れてくる中、
狭霧は、玉串を村雨に捧げるどころか、
通夜祭にも、遷霊祭にも出ることを許されなかった。
その事実は、漣のように街の人たちの間に囁かれて広がった。
「やっぱり、血のつながりがないから葬儀には出さないのかしら?」
「村雲さん、狭霧ちゃんを引き取るの、大反対だったし、
いまでも、村雨さんの娘だって認めてないんじゃないかしら?」
「いや、災いを運ぶ印があるから、神社の行事には出せないって聞いたけど?」
「あ、それ、私も聞いたことある。」
「本当の母親が神社の前で干からびたようになって行き倒れになっていたのは、
その腕に抱かれていた赤ん坊に原因があったとかって。」
「しっ! そんな風に滅多なこと、憶測で言うでないよ!」
たしなめられて小声にはなるけれど、
実は由緒正しい神社の巫女が亡くなったその不吉さが街の人の不安を煽っていた。

 十日祭が終わって初めて、群雲は狭霧と向かい合った。
苦い顔をしている群雲を前に、狭霧はうつむき、こぶしをぎゅっと握って
正座していた。
「狭霧、今日はお前にちゃんと話そうと思う。
私がこれから言うことをしっかり聞きなさい。」
「はい…。」
小さな声を振り絞るようにして、狭霧は答えた。
「狭霧、村雨が死んだときに言ったように、お前は村雨の子ではない。
お前は、この神社の前で行き倒れてしまった女がその腕に抱いていた子だ。
女は飢えと渇きで酷い有様だったが、その腕の中にいたお前は、元気に笑っていた。
その時点で、すぐにおかしいと気付いた。
母親と思われる女が、干からびたようになっていると言うのに、
その女から乳をもらうお前が、そのように丸々と元気でいられるわけがない。
抱き上げると、すぐに判った。
お前は、普通の赤ん坊ではなかったのだ。」
群雲は、ここで言葉を切ると、大きく息をついた。
「お前には、神の印があった。」
「神… さま?」
「そう、迦具土神(カグツチノカミ)の。」
「カグツチノカミ?」
「そう。生まれるときに母神を焼き殺し、そのことに怒った父神に切り殺された火の神だ。」
禍々しい神の話に狭霧は息を呑んだ。
「生まれてきたお前に罪も咎もない。だが、お前の存在はあまりにも危うすぎる。
だが、村雨は…、あれは、優しい娘だったから、赤ん坊のお前を見殺しには出来なかった。
自分の霊力の強さに自負もあったのだろう。お前を自分の子として育てると言った。
私は反対だった。如何に力があろうとも、神を凌げる道理などないのは
誰にだって分かりきったことだろう。
だから、命を削ることになるであろうお前との生活を私は許すことは出来なかった。
それでも、村雨は押し切った。無垢な命の輝きを故意に絶つことは出来ない、と。」
狭霧は青ざめた。そして、青く震える唇で何とか言葉を送り出す。
「じゃあ、もしかして、お母さんが…、村雨さんが死んだのは、私の…。」
「残酷なことを言うようだが、そうなのだ。あれは、お前の力を抑えるために
自分の命を削ってしまったのだ。」
狭霧は膝の上にあった自分のこぶしを口に当て、そのこぶしを噛んだ。
そうしないと、無意味に叫びだしてしまいそうだった。
大きく見開かれた目にはでも、涙はなかった。
衝撃的過ぎて、心が痺れたようになって、泣けなかったのだ。
ただただ、狭霧の瞳は不安で揺れ動いた。
群雲が続ける。
「狭霧、お前は神の印があるとは言え、人の子として生まれたのだから、
人の子として、生きていかなければならない。
身を慎み、心を波立たせることが無いようにせねばならない。
私が言っていることが分かるか、狭霧?」
血の気のなくなった顔で、でも、狭霧はしっかりと頷いた。
「……はい。」

 その日から、狭霧は大きな声で笑ったり、はしゃいだり
ましてや、激しく泣いたり怒ったりしなくなった。
同世代の子供の中にいても、いつも静かに笑っているだけ。
学校に行っても、目立たないようにひっそりと過ごした。
静かに、静かに、空気すら揺らさないように。

 昔、狭霧はよく村雨と一緒に空を眺めた。
空を行く雲に名前をつける。刻々と変わる空の色をなぞる。
空を仰いで、大きく息を吸うと、それがどんな天気の空であれ
心が軽くなって、どこまでも飛んで行ける気がした。
 昔、狭霧はよく村雨と一緒に花摘みをした。
花はいつでも健気に咲いて、どの花も強く美しく
狭霧に穏やかに楽しい遊びを教えてくれた。
王女さま気分にさせてくれる冠も、小さな水車も
犬の人形も、亀の人形も、ふくろうの人形も
デンデン太鼓も、パラソルも、全部その遊び相手が教えてくれた。
 昔、狭霧は村雨に抱っこされて、色んなものに近づいた。
村雨の腕の中、悪意あるものは何もいなかった。
虫も、鳥も、動物も、花や木も、目には見えない鬼たちですら、
狭霧の友だちで、何もかもが狭霧に優しかった。
昔は、それが普通のことで、なんら特別なものじゃなかった。
でも、今なら分かる。村雨がどんなものを狭霧に残してくれたのか。
 それは、あるものをあるがままに受け入れる気質と、
この世にある全てのものに向ける温かな眼差し、
そして、森羅万象・あらゆるものを尊敬し、それに感謝する気持ち。
全ての存在が持っている命の輝きとその力強い美のありようを
感じ取る力。
それはつまり、狭霧の心の安定を呼ぶ大切な”魔法の杖”。
それはつまり、形のない”魂鎮めの玉”。
村雨はそれを自分の命を懸けて、全身全霊で渡してくれた。
村雨とは血のつながりのない自分だけれども、
空を見るたび、花を見るたび、生き物に触れるたび、
村雨が如何に自分を思ってくれていたのかが分かって
狭霧の心はほっと温かくなった。

 それなのに。
どうして人は、こんなにも残酷になれるのだろう…。
ただ、そうっとしておいてくれればよかっただけだけなのに、
どうして、そうはしてくれなかったのだろう…。

 最初は、ただ距離があっただけだった。
陰のある大人びた狭霧と何となく距離が出来てしまうのは、
仕方のないことだったかもしれない。
けれど、それは徐々にエスカレートして、
狭霧を遊びに誘うことがなくなり、やがては誰も話しかけなくなった。
やがて、クラス中から無視されるような形になり、
いつの間にか狭霧は独りぼっちになっていた。
 それでも、狭霧は辛い顔はしなかった。
群雲に言われたように、そして、おそらく村雨が望んだように
心揺らさず、笑顔で過ごす。
心に思い描くのは村雨の面影、そして、村雨がくれた優しい世界。
 心に優しくはない現実の世界ながらも、時は静かに流れていった。
そう、この日までは−−−。

 実の父のことは何も分からず、実の母と思われる人の顔も
覚える間もなく死に別れ、
その上、育ての母の村雨も既にこの世になく、
その父の群雲も、取り立てて可愛がる様子を見せない狭霧に
同情を寄せる街人は多かった。
中でも、大工の太一は狭霧をとても気に掛けていた。

 賑やかにお喋りしながら帰路に着く女の子たちの中
誰とも喋らず、誰とも視線を合わせないように俯いて歩く狭霧は
ふと、池のほとりで立ち止まった。
夕日が映るその水面は朱に染まって、水の中で何か動いたのか
静かに広がる波紋がその紅を揺らした。
「狭霧ちゃん、何してる?」
ふいに掛けられた声にも驚くことなく、声のしたほうに少しだけ顔を傾けて
「きれいだな〜と思って。ほら、逆さに映った景色がゆらゆらしてる。」
と、狭霧がふわりと微笑んだ。
「あ、そうなんだ。おれ、邪魔しちゃったかな?」
太一が頭をぽりぽりかいた。
「いえ。」
今度は、狭霧がくるりと太一のほうへ向き直る。
「心配してくれたんですよね? 私、よからぬことを考えているように
見えちゃいましたか?」
「あ… いや…。狭霧ちゃんには敵わないなぁ。」
「ありがとうございます。私は大丈夫です。だって…
私には、お母さんがくれたものがあるから。」
ニッコリ笑った狭霧に、太一はホッとした。
「そっか。狭霧ちゃん、これ、今日もらった柿なんだ。1つ食べるか?」
「いただきます! 柿、大好きなの。」
ようやくこぼれた歳相応の明るい笑顔に、太一は嬉しくなる。
「太一さん、親切ですよね。」
柿にかぶりつきながら、ポツリとつぶやく声に
「狭霧ちゃんは、村雨の忘れ形見みたいなもんだから。」
太一がちょっとだけ照れた顔をした。
(お母さんを好きな人がいる。私と同じ! 仲間だ。)
狭霧は嬉しくなる。

 その翌日のことだった。太一が足場から足を滑らして転落死したのは。
誰が悪いわけでもない不運が重なった事故だった。
 柿をもらって、村雨のことが好きだったのであろうことを知ったのは昨日。
それからたった1日しか経っていないのに、
狭霧のことを気に掛けてくれた温かい笑顔の持ち主はもういない。
ショックで呆然とする狭霧はでも、心乱してはいけないと必死で動揺を押さえつける。
そんな狭霧を差すような目で絹香が見た。
絹香は狭霧のクラスメートで、太一の姪だった。
「あんたのせいよ…。」
聞き取れないような小さな声で絹香が俯いたまま呟く。
周りのクラスメートが「え?」と訊き返した。
その声で顔を上げた絹香の目は、怒りでギラギラしていた。
普段は大人しい絹香からは想像できないような激しい憎悪だった。
「太一おじさんが死んだのは、あんたに親切にしたせいよ!
あんたに優しくし人は、みんな死んじゃうんだ。
あんたを抱っこしていた女の人も、村雨さんも、
私の大好きだった太一おじさんも。
みんなみんな、あんたが殺したんだ!
あんたは、疫病神。あんたは、死神なんだ!
太一おじさんを返せっ! 死神のお前のほうがいなくなれっ!」
大きな声でそうまくし立てると、絹香は肩でぜいぜいと息をした。
シンと静まり返る教室、誰も彼もが狭霧から後ずさるようにして距離を置いた。

 違う!と言いたかった。自分は死を望んだりしていない、と。
けれど、言えなかった。
村雨が自分の命を削って狭霧を育ててくれたことを聞かされて以来、
どこかで、自分自身を禍々しいと感じ、忌み嫌う自分がいたから。
けれど、ここまで言われて何も反論しない狭霧を
クラスメートたちは気味悪がった。
 そして、今まで無視だけだった態度が様相を変えた。
最初は、狭霧の机に白いレースが掛けられ、白い菊が一輪飾られただけだった。
その翌日は、「学校に来るな」や「死神」などと机に彫られていた。
靴の中に画鋲が入れられたり、机やロッカーにゴミを入れられたり
教科書やノートが切り裂かれたり、勉強道具がなくなったりした。
狭霧の机とイスが校庭に放り出されていることもある。
でも、直接は手を出さない。
親切にするのと同じくらい、いや、それ以上に危害を加えるのは
身の危険を感じることだったから、
狭霧に対して掛けられるプレッシャーは、陰にこもって執拗だった。
 狭霧は、それでも泣かなかった。
心が乱れそうになると、空を仰いで深呼吸する。
(動揺してはダメ。これ以上災厄を呼んではいけない。)
自分自身に繰り返し繰り返し呪文のように言い聞かせる。

 もしかしたら、少しは取り乱したほうがよかったのかもしれない。
少しなら、反撃を試みたほうが。
でも、徹底して無反応の狭霧に対し、さらにクラスメートたちの態度が変わった。
とうとう、直接手を出すようになった。
足を掛け、突き飛ばし、罵声を浴びせ、蹴り上げる。
うめき声さえ出さずに飲み込む狭霧に、暴力の頻度が増した。

 今日も、背中をいきなり突き飛ばされる。
「もう、学校へ来るなよ、疫病神。」
「お前が来たら、また誰か死んじゃうだろ、死神。」
転んだその頭上から、心無い言葉が浴びせられた。
けれど、狭霧は何事もなかったかのような落ち着いた様子で
転んだときについた土ぼこりを払う。
ふと、中の一人が狭霧の左足に目を止めた。
「なんだよ、ちゃらちゃらこんな汚れた紐つけちゃって。
汚いんだよ。取っちゃえ。」
その言葉に呼応するように、いくつもの手が狭霧の足に伸びてきた。
ビクッとしたように震えると狭霧は
「やめてっ!」
と、久しぶりに大きな声を出した。
ところが、いつも取り澄ましたような様子の狭霧がうろたえたことが、
狭霧を取り囲んでいた子たちを余計に煽ってしまった。
更にヒステリックに伸ばされてくるたくさんの手。
なんとか逃れようとするが、掃いきれない。
とうとう、狭霧は再び引き倒されて、足を押さえつけられてしまった。
狭霧は悲鳴混じりに叫んだ。
「やめて! 放して! それは、お母さんと取らないと約束したお守りなのっ!
触らないで! ダメ! 取らないで! 約束なのよ!」
けれど、その必死の声は暴力に酔ってしまっている子たちの耳には届かない。
それどころか、却って更に状況を面白がらせてしまうと言う皮肉。
 プツン−−−
その音は、誰にも聞こえないくらいかすかな音だった。

 「うわぁっ!」
左足の紐を引きちぎった学が悲鳴を上げると共に燃え上がった。
「え?」
狭霧を押さえつけていた手が一斉にパッと離れる。
さっきまで「人」だった動く炎の塊を見て、中の一人が叫んだ。
「水だっ! 早く!!!!」
その声に弾かれるようにして、数人が水道へ駆け出した。
けれど、バケツの水を手に戻ったときには、
もうその炎は消えていた。
ぷすぷすと嫌な音と臭いを撒き散らしながら、灰色の煙が上がる。
何が起こったのか、理解出来ずに呆然とする人垣の中、
突然、哄笑が響き渡った。
 その笑い声は、本当に愉快そうに、痛快そうに人と人の間をすり抜けていく。
この状況の中、誰もが、その声の主のほうを振り向いた。

 心から楽しそうに笑っていたのは、狭霧だった。
でも、一目では狭霧とは分からないほどに、面差しが変わって見えた。
いつも控えめに伏せがちな瞳は大きく見開かれ、強い眼差しをしていた。
青ざめがちだった頬は、紅を刷いたようにきらきらと紅く上気する。
いつもは引き結ばれた口元が、今はうっすらと開かれ口角が上がっていた。
狭霧を取り巻く空気が陽炎のように揺らめき、狭霧の輪郭が滲んだ。
空間を威圧するかのようなその圧倒的な存在感が異彩を放つ。
「な、なんなんだよ、お前…。」
さっきまで狭霧を押さえつけていた祐二が怯えたように呟いた。
狭霧は薄く笑ったままの表情を変えず、踊るような足取りで
祐二の傍らに立つと、いきなり右手を上げた。
叩かれる!と身構えた祐二の上から袈裟切りするように手を動かす。
シュッ! 返り血が狭霧の頬に飛ぶ。
刃物を何も持っていないのに、右手から血が滴り落ちた。
クスクスクス… 狭霧は我慢できないと言うように笑い声を漏らす。
近くに落ちていた棒切れを拾うと、途端にその棒が燃え上がった。
「だから、ダメだと言ったのに。触らないでって言ったのに。」
歌うように狭霧が言う。
「お守りは、私を守るためじゃなかったんだね、お母さん。
私を封印するための”印”だったんだね。
でも、お母さん、それは無駄になっちゃったよ?
だってほら、その封印を解いたのは、この人たち。
この人たちが自分たちで自滅の扉を開いたんだもの。
仕方ないじゃない? 私は悪くないわ。」
狭霧がまた、高らかに笑った。

 我先に逃げようとして、人垣が崩れた。
その様子を見回して、狭霧が冷たい目で静かに微笑んだ。
歩くたび、狭霧の触れるものが、次々と燃え上がる。
歩くたび、狭霧の触れるものが、次々と崩壊していく。
狭霧を蹴り上げた俊明がパニックに陥って逃げるのを、
狭霧は跳躍一つで追いつき、捕まえた。
「やめてくれっ! やめてくれっ! 助けてくれっ!」
闇雲に手足をバタつかせて狭霧から逃れようとする俊明を
狭霧はじっと見つめた。
「私も言ったのよ? やめてって、触らないでって。
お母さんとの唯一の約束を守りたかっただけだったのよ?
だけど、そうはさせてくれなかったのよね?」
ここで、狭霧はにやりと笑った。背筋が凍るような微笑だった。
「でも、今ならよく分かるの。どうして、あなたたちが
私のお願いを聞いてくれなかったのか。
どうして、静かに放っておいてくれなかったのか。
だって…。
傷つけることって、こんなにもワクワクするんだもの。
他人の痛みが、こんなに甘美だなんて、知らなかった。」
うっとりした目でそうつぶやくと、俊明の両方の二の腕を掴んで
広げるように持った。
「これで左右に引張ったら、さぞ痛いでしょうね。
体が引き裂かれたら、どんな感じになるのかなぁ? ふふ。」
宙吊りにするようにして、狭霧はゆっくりと両腕に力を入れる。
ギシ…と、骨がきしむ音がして、俊明は気を失った。

 「狭霧… ダメ…。」
微かな微かな呼び声が聞こえた気がして、狭霧は引き裂こうとする手を止めた。
キョロキョロと周りを見ると、切れて落ちた約束の紐から気配がした。
「お母…さん…?」
狭霧が問いかける。
「衝動に身を任せてはダメ…。あなたの本質は、繊細な…優しさよ。
思い出して…。」
切れ切れに届くのは、たぶん、お守りに込められた村雨の残留思念。
「あなたをあなた自身から守ってあげたかったのに…。
愛しい私の娘…。」
ついさっきまでの怒りと憎しみに燃えるような目が弱気に揺れて
狭霧の目が、正気を取り戻す。
フェード・アウトしていく村雨の残り香に狭霧が手を伸ばしかけた。
でも、その手を結局は俊明の腕に戻す。
「お母さん、ごめんね。でも、もう遅い。もう、私戻れないの。」
気絶したままの俊明をちらりと見ると、狭霧は再び冷たい目になって笑った。
そして、その薄ら笑いを浮かべたまま、力任せに俊明を引き裂く。
あまりの凄惨な光景は、そこだけゲームやドラマの作り物のようだった。
でも、あたりに立ち込める血の臭いが、それが現実のことだと告げる。
全身を朱に染めて、狭霧が空間を震わせるように笑う。
 血の祭典は、今、始まったばかり………。






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