四季物語 〜秋〜


 「やっぱり、じいちゃんは人間だったんだな。」
豊はじいちゃんの部屋の前に佇みながら、呟きました。
少し長めの真っ白な髪をキュッと後ろで束ね、
同じ色のあごひげを蓄えた豊のじいちゃんは、
どことなく飄々として、古い水墨画にさらりと描かれた
仙人を思わせました。
豊はだから、「じいちゃんは、僕が死んだ後も絶対
今と変わらず生きてるに違いない。」と信じていました。
なのに、そのじいちゃんが亡くなってから、
もう二ヶ月が経とうとしています。

 豊の父親は、スポーツ万能のタイプで、大抵のスポーツは
難なくこなしました。
母親も、同じく元気な人で、子供は暗くなるまで外で元気に
過ごすのが一番だと信じて疑わない人でした。
だから、豊がピアノを習いたいと言い出したときは、
二人ともいい顔をしませんでした。
「男の子なんだから、ピアノなんかじゃなくて、スポーツがいいぞ。
野球でもいいし、サッカーでもいいぞ。
お前は泳ぎが得意だから、水泳選手に向くんじゃないか?」
そう豊を説得する父親の横で、母親も頷いていました。
 そんな中、いつの間にかその後ろに立っていたじいちゃんが、
「ピアノが女の子のものだなんて、ズレとるなぁ。
有名な男のピアニストだっていくらだっているだろうに。
男の子がピアノやって何が可笑しいんだい?」
そう助け舟を出してくれました。
その言葉の後、どこでどう話がひっくり返ったのかはっきりしないまま、
豊はピアノを習えることになったのでした。

 「実はな、ピアノの伴奏で、歌を歌ってみたかったんだ。
豊、早く上手くなって、じいちゃんの歌の伴奏してくれな。」
何となく釈然としない両親を部屋に残して出る時に、
じいちゃんは、豊にこっそりそう言いました。

 程なく豊がそれなりにピアノを弾けるようになると、
宣言どおり、何処からともなく楽譜を持ってきては、
よく、豊に伴奏をさせて、歌うようになりました。
童謡のときもあれば、オペラ曲の時もあり、
歌謡曲も歌えば、軍歌も歌いました。
歌うじいちゃんは、とても楽しそうで満足気でした。

 じいちゃんのために始めたピアノではありませんでした。
ただ、好きだった女の子がピアノを習っていたから、
同じ教室に通いたかっただけ。
でも、いつの間にか、じいちゃんの歌の伴奏のために
一生懸命ピアノを練習していました。
だから、今では、ピアノはじいちゃんのためのものでした。
それなのに、そのじいちゃんはもういない。
豊は二ヶ月前からピアノを弾かなくなりました。

 久しぶりに豊はじいちゃんの部屋へ入りました。
事故で突然逝ってしまったじいちゃんの部屋は、
小奇麗になってはいましたが、主がいない部屋には見えませんでした。
読みかけの本がテーブルの上にしおりを挟んでおいてあります。
ベッドに置かれた着替えはきちんとたたまれたままになっています。
ただ、うっすらと降り積もった埃が放っておかれた時間の長さを
物語っていました。
 お通夜の時も、お葬式の時も泣けなかった豊はこの時初めて
涙を流しました。
「じいちゃん、ひどいよ。突然いなくなるなんて。」
涙をぐいっと拭いた手が、机の上にあった本立てにぶつかって、
落ち葉のように楽譜が散らばりました。
「小さい秋みつけた」がありました。
「ショパンの夜想曲2番」がありました。
「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」がありました。
どれも、じいちゃんが愛した曲たちでした。
「弾けってこと?」
泣きながら、笑いながら、豊は久しぶりにピアノを開けました。
「小さい秋みつけた」から始まって、童謡を次々と弾きました。
「じいちゃん、歌ってみなよ。いくらでも弾くから。」
視界がにじんで、鍵盤が良く見えません。
でも、大丈夫。何度も弾いた曲だから、手元が見えなくても、
間違うことはありません。
 いくつもの曲を次々と弾いている最中、
じいちゃんの部屋で、カタリと音がしました。
が、ピアノを弾くことに夢中の豊はそれには気がつきませんでした。

 両親がそれぞれの用事でいっぺんに家を空けた晩、
豊は再びピアノのふたを開けました。
月の明かりだけで弾けそうなくらいの
明るく輝く、白い満月の晩でした。
思わず、ドビュッシーの「月の光」を指が奏でていました。
すると、どこからか、そのピアノの音に
かぼそくヴァイオリンの音が寄り添いました。
その音色は美しく透き通って豊の心に染み透ってきました。
豊は次にゆっくりとしたテンポで「美しきロスマリン」の
メロディーラインをそっと右手で弾きました。
するとやっぱり、ヴァイオリンの音色が重なります。
その上、さっきよりも近くに来たのでしょうか、
幽かだった音が、しっかり聞こえてきました。
豊は、メロディーをヴァイオリンに譲って、
その音色を包み込むようにハーモニーを弾きました。
 ますます近くにはっきりと聞こえてきた音色を
豊はいぶかしく思いました。
その音はあまりにも近すぎて、
まるで家のどこかで弾いているように聞こえたからでした。
ピアノを止めて、音をたどると、
それはじいちゃんの部屋から聞こえてきました。
(じいちゃんの部屋に誰かいる!しかも、無断でだ!)
豊は、勢いよく部屋の戸を開けました。
「誰だっ!」

 ところが、部屋には誰もいません。
人が隠れられるようなところをあちこちと覗いてまわっても、
やはり誰もいません。
でも、たしかにこの部屋からヴァイオリンが聞こえたのに。
 ふと、机の横に立てかけてある額に目が行きました。
8号くらいの大きさで、手元に引き寄せてみると、
そこには、ヴァイオリンを弾く少女が描かれていました。
 ワインレッドのロングドレスは、
余計なレースや刺繍のないシンプルなもので、
ハイウェストの切り替え部分には、
同じ色のリボンがあしらってあります。
ヴァイオリンを弾くときに邪魔にならないようにか
袖のないドレスの肩口から、
白く、細い腕が伸びていました。
勢いよく弓を動かした瞬間を描いたものなのか、
少女の髪がふわりと揺れている絵でした。
「いいとこのお嬢さんって感じの子だな。
顔はよく分からないけど。
ん?SOUTA…?壮太?じいちゃんの署名だ。
へぇ!じいちゃんって、絵もやってたんだ!
さすが多趣味だなぁ。しかも、なかなか上手いじゃん。」
豊は、じいちゃんの部屋へ勢いよく入った理由を忘れて、
うきうきとその絵をピアノの傍らにまで持って行きました。
 絵をピアノの足に立て掛けるようにして、
「絵的には、チゴイネルワイゼンって感じだけど、
穏やかな曲のほうが似合いそうだよね。」
そう言うと、豊は、ゆったりと「タイスの瞑想曲」を
弾き始めました。
メロディーラインへ移ろうとする時に、
するりとヴァイオリンの音色が入り込みました。
ぎょっとして、顔を上げると、
そこには、少女が立っていました。
ピアノを途中で止めてしまったしまった豊を不思議そうに
小首を傾げて、見ています。
「なぜ、お止めになるの?」
少女は、艶然として豊に話しかけてきました。

 眩暈がしそうな美少女でした。
栗色のまっすぐな髪に、血管が透けそうな白い肌。
大きくクリクリとした瞳には、知的な輝きがあります。
そして、ワインレッドのロングドレス、
右手に弓、左手にヴァイオリン。
(こ、この子ってまさか…。)
驚いて絵を振り向くと、そこに描いてあった少女がいません。
豊の目は、少女と額を行ったり来たりしました。
「だ、誰?」
豊のその問いに、少女は、まぁと驚いてから、
それこそ、鈴を転がすような声で笑いました。
「そんな意地悪をおっしゃっては、いけませんわ。
さぁ、もっとお弾きになって。ね?」
この少女が、誰だろうが、何処から来たのであろうが、
たとえば、絵の中の少女だとしても、
そんなことは、もう、豊かにはどうでもよくなりました。
ただ、この少女と、心合わせて、音楽が出来れば、
というより、この少女を側にとどめておけるならば。
 豊が次に弾いたのは、「愛の喜び」。
少女はやわらかく微笑むと、すぐに音を合わせてきました。
少女をちらりと見るたびに、豊かの胸が、甘く締め付けられます。
それでも、その甘い痛みを味わいたいような不思議な感覚で、
豊は、何度も少女をチラチラと垣間見ました。

 なんとも言えないビロードのような時間が過ぎていきました。
「だいぶ練習なさったのね。とても上達なさったわ。
音を合わせるのが、こんなに楽しく思えたことは
今までありませんでしたわ、壮太さま。」
(壮太?)豊の手が、ぴたりと止まりました。
その様子を見て少女の顔が曇りました。
「もしや、壮太さまではいらっしゃらないの?」
困惑した顔で、少女はつぶやいたかと思うと
そのまま、かき消すように消えてしまいました。
絵を振り向けは、そこには何事もなかったかのように
ヴァイオリンを弾く少女の姿。
後に残ったのは、寒々しいような静寂だけでした。

 その後、なんどピアノを弾いても、
少女が現れることはありませんでした。
でも、あの絵は、今では豊の部屋に飾られています。
(じいちゃんとこの子、相思相愛だったんだろうな。
だって、一緒にいる間、この子本当に楽しそうだったもの。
でも、今ではこの子は、僕のものだよ。)
 今日も豊は、少女に優しく口づけて、部屋を後にしました。



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